「ゴールデンカムイ」で紹介してほしい謎の北海道料理 「まくり汁」を作る

北海道
フリーライター
youichi tsunoda
角田陽一

今回は、ゴールデンカムイにもいまだ載らないレアな北海道料理「まくり汁」を紹介してみたい。

 

漫画「ゴールデンカムイ」といえば
アイヌ料理に北海道料理

 

漫画「ゴールデンカムイ」と言えば、アイヌが軍資金にため込んだ砂金を巡る、あまりにも濃い人間模様。日露戦争の生き残り兵に北海道独立を企む新選組の残党、あるいは屯田兵。はては「動物愛好家」までも入り乱れて混沌とする中、ホッと落ち着けるのはアイヌ少女アシㇼパが仕立てるアイヌ料理。山水の幸を煮込んだオハウ(汁物)、鮭の軟骨やシカ肉を刻み叩き、行者ニンニクを薬味に利かせたチタタㇷ゚(タタキ)、煮込む際は部屋の中に男女を同人数配置しなければ「障り」があるラッコ鍋などなど。90年代に某格闘ゲームにはまり、アイヌ少女をイメージしたキャラの「得意料理」とされるラタシケプのみがアイヌ料理だと理解し満足していた世代にも、多大なインスピレーションを与えたことだろう。

 さて、ゴールデンカムイの物語世界は明治後期の北海道。アイヌモシㇼ(アイヌ文化圏)が本格的に大日本帝国領に染められていく激動の時代でもある。その功罪を問うのは紙面の都合で割愛するが、ゆえに作中に登場する料理、グルメは、「日本料理」「和人文化」のウエイトも大きい

小樽の花街の花園だんごを食らい、ニシン蕎麦の滋味にヒンナを口ずさむ。鰊漬けを頬張る。その他、シャチの竜田揚げに子持ち昆布、因縁のアンコウ鍋に月寒あんぱん、はては味噌以上にオソマな外観のライスカレーと、ブラキストン線以北の大地が育む山海の珍味を和人文化、そしてお雇い外国人の西洋文明にてこねまぜた深遠な北の食文化は尽きることが無い。

 春になれば湧き上がるニシン
北海道と西日本経済を支えたニシン漁

 

 だが和人文化の下での北海道料理ながら作中に登場しなかった料理、いずれ機会があるならぜひ載せていただきたかった料理がある。

 それが「まくり汁」。

 まくり汁。
2021年現在、ゴールデンカムイにはいまだ未登場だが、仮にこれまでの作中で登場すべきシーンがあるとするなら4巻後半から5巻にかけての37話~40話だろう

 北海道の4月は桜にはまだ早い
陸では根雪が融ける。浜にはニシンが押し寄せる。早春へと季節は移り、日本海沿岸には雄雌のニシンが大挙して訪れる。どんよりと生暖かい空の元、雄雌の生の営みで海面は沸き上がり、海面は乳白色に染まる。この現象を「群来」(くき)と呼ぶ。北海道の春はニシン漁で幕を開ける。

湧き上がるニシンは沿岸を泳ぎすすむうちに、浜の住人が設置した建網に突き当たり、続々と追い込まれていく。その瞬間を察した漁場の船頭の号令の下、建網は引き揚げられ、中の膨大なニシンは運搬用の網「枠網」の中に落とし込まれていく。数回の網起こし作業によって満杯になった枠網は舟に繋がれ、岸に近く波静かな地点まで移動される。枠網内部のニシンをタモ網で掬いあげ、運搬専用の船「汲み舟」に移し替えて陸揚げしていく。この作業の折に唄われるのが北海道民謡として名高いソーラン節である

漁師仲間のうちで特に腕力が優れた者が、ニシンで満ちた枠網に巨大なタモ網を突き入れる。周囲の者は網を引き揚げるための木製の鉤「ヤシャ鉤」やタモ網の柄を支える二股の棒「アンバイ棒」で舷を打ちならし、ソーラン、ソーランとはやし立てる。タモ網がニシンで満ちたところで音頭取りが歌詞をひとくさり歌いあげ、その隙に、一団はホッと小休止。そして囃子言葉「ヤサ エエンヤァノ ドッコイショ」を合図として全員で一気にタモ網を引き揚げ、汲み舟の胴の間にニシンを打ち撒ける。

揺れ動く危険な船上での、単調な肉体労働。しかも4月の北海道はいまだ寒い。眠気に負けて船から転落すれば命にかかわる。そこで船頭は時にあえて「卑猥な歌詞」を歌い上げ、漁夫らの目を覚まさせる。陸から隔絶された小舟の中、もとより男の世界のことだ。あたかも「中高生・修学旅行の夜」のような猥談で盛り上がったことだろう。

現在、中高生の心身育成の名目でソーラン節を躍らせる例があるという。21世紀の若者がイメージするソーラン節と言えばニシン漁の仕事唄からかけ離れ、学校イベントとしての思い出だろう。だが北海道の日本海沿岸地域の民族誌を熱心に耽読すれば、ソーラン節の元唄に行き当たる。シャレが効きつつ卑猥な歌詞を鑑みればはたして「教育現場」にふさわしい物か、はなはだ心もとないのである。(このあたり、ネットで検索すればいろいろ出てきます)

 さてニシンを満載した汲み舟は船着き場に漕ぎ寄せられる。船着き場には逆三角形型の背負い箱「モッコ」を背負った運搬係が待機している。運び手が舟に背を向けて座れば船の乗り手は次々とモッコ内にニシンを投入し20㎏ほどの重量になったあたりで、モッコの背板をタモの先端で打つ。「よし、行け」の合図である。ここでモッコ背負いが女性で、しかもタモ持ち係の意中の相手だったら…ニシンの量を少なくしてやる「妙な気遣い」が露見する面白さ。モッコ背負いは船着き場と集積場を行き来しつつ、不眠不休で運搬に励む(この辺りは、ゴールデンカムイ16巻、151話あたりを参照。もっともシシャモの旬である晩秋にニシン漁が重なることはあり得ないから、モッコの中身はニシンではないだろうが)

 

揚げられた生ニシンは、舟の格納庫を兼ねた板倉「廊下」(ろうか)に続々と流し込まれていく。廊下がニシンで満杯になれば、戸外の一隅をスダレで囲った臨時の集積場「納坪」(なつぼ)にニシンをとりあえず納める。蓄えたニシンのうち生の鮮魚として出荷されるのは少量で、残りは背肉の干物「身欠き鰊」に加工するか、大釜で炊いた上で圧搾機にかけて水分と魚油を搾り出し、搾りかすを乾燥、発酵させた「鰊粕」として出荷する。身欠き鰊は簡便な保存食として山村の貴重なタンパク源となり、鰊粕は高級肥料として西日本方面に流通し、綿花やミカン、藍の栽培を担った。北海道西海岸には西国の「近江商人」が持ち込んだ「関西式の桜餅」

だが江戸時代中期以降のニシン漁の盛況が、日本海沿岸地域のアイヌのコミュニティーを破壊した点は否めない。北海道小樽市周辺を含め日本海沿岸は、ニシン漁の影響でアイヌの民族コミュニティーが早くに失われた地域。ゴールデンカムイ539話あたりで、アシㇼパがニシン漁を「初めて見た」ように見物しているシーンは、実際にはあり得ないわけである。

そんなニシン漁のありさまは、下記の動画をご覧いただきたい。

昭和初期、樺太でのニシン漁のありさま

ソーラン節のもととなった沖揚げ音頭を唄いつつ、ニシンを枠網から汲み舟に揚げる。船着き場での陸揚げ作業はクレーンやトロッコが用いられるものの、大半は人力の人海戦術。「ゴールデンカムイ」では人の頭をカチ割る凶器として使われた北海道の民具「こまざらい」が、340秒あたりできちんと「生活の道具」として使われるのも面白い

 さて蓄えられた生ニシンは、順次、身欠き鰊や鰊粕に加工されていく。だが人力が頼りの重機もない時代、桜には早い早春の北海道とはいえ、冷蔵設備もない時代のことだ。遅々として進まない作業の中、大量に貯蔵されたニシンの重量をまともに受け止める「一番下のニシン」は水分や魚油を搾り出され、草木が萌えだす季節の陽気を浴びて「発酵しかかった」状態になる。その状況をひらがな表記で「ろーかづかれ」と呼ぶ。「廊下疲れ」か「廊下漬かれ」かは定かではない。そんなニシンで作る料理が、今回の本題「まくり汁」だ。

 

ニシンが去り人も去る
忘れ去られたまくり汁

 

 だが、現在の北海道で「まくり汁」は忘れ去られた料理である。昭和29年を最後に春のニシンの群来はぱったり途絶え、あとは寂れて「石狩挽歌」の世界21世紀以降は長年の稚魚放流や資源保護が実ってニシンの群来が復活しつつあるものの、重機による大量運搬や冷凍冷蔵設備が普及した今、大漁の生ニシンが常温で放置される状況はありえない。仮にそのような状況が発生しても、あえてそんなニシンを食べる物好きはいない。ネットで「まくり汁」を検索しても、その語感からか、教育上よろしくないDVDがヒットするばかりである。

 筆者が「まくり汁」を知ったのは、昭和末期から平成初期にかけ、農山漁村文化協会、略して「農文協」が発行した「日本の食生活全集」である。平成4年に発行された「アイヌの食事」は「ゴールデンカムイ」に登場するアイヌ料理の主要な参考文献だが昭和61年、1986年に発行された「北海道の食事」こそ「まくり汁」の初見だ

 

日本最北の城下町・松前、そして日本海に浮かぶ島嶼・焼尻島の食文化として、この料理が紹介されている。

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松前におけるレシピ

ニシンが大漁だったころ、納坪(なつぼ)の下でつぶれかけ、腐れかけたニシンで作った料理。今はニシンが獲れないので、買ってきたニシンをまくりにして食べる。まずニシンを一週間ほど海水に漬ける。その上で手開きにして中骨を除き、塩を振りかけ2時間ほど寝かせる。皮を内側にして巻き上げ、昆布出汁の塩味で煮立て、葱やノビルを加える。

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焼尻島におけるレシピ

廊下や納坪の中で潰れて発酵したニシンを手開きにする。アイヌ葱(行者ニンニク)やアサツキを芯に、皮を表にくるくる巻き上げ、太めの木綿糸で縛る。昆布出汁の塩味で煮込み、三平皿(皿と丼の中間くらいの深さの皿。三平汁を盛るのでこの名がある)に盛り付けて醤油をかけて食べる。「まくり汁」だが、汁はふつう飲まない。

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「日本の食生活全集」で紹介される庶民の食生活は、大正末期から昭和初期にかけての時代。当時の北海道日本海沿岸ではニシンの漁場が徐々に北上しつつあった。江戸期に豊漁に湧いた松前、江差方面はすでにニシンが去り、まくり汁も「購入したニシン」をまくりもどき?に加工して作る料理。だが北方の焼尻島ではニシンの群来、そして豊漁が健在。廊下の中で現在進行形でニシンが発酵して「まくり」に化け、住民は春の山菜を巻き込んで食べる。

後に訪れるニシン漁の栄枯盛衰が予感される描写と言えよう

 

漬け込んだニシンで
行者ニンニクをロールする

 

 では、さっそく「まくり汁」を再現してみよう。

 まずニシンを入手する。本来ならばカズノコなり白子なりがたっぷり入った旬の生ニシンを使うべきだが、あいにく筆者居住地周辺のスーパーでは、頭を落とし内臓を抜いたものしか入手できなかった。ともあれ、ニシンに少量の塩をふりかけ、キッチンペーパーで巻き上げてビニール袋に納め、冷蔵庫の野菜室に入れる。

その上にピクルスや自家製キムチの瓶を載せて重量をかける。氷点下にならない冷蔵庫内の温度は、四月上旬のニシン漁場の気候と同じだと仮定。上からの重量で水分と油分を搾り出されていく。

 

これが、1週間後の状態。余計な水分が抜けて身が締まった状態。しかしながら冷蔵庫内という温度が管理された場で漬け込んだせいか、臭いにはパンチがない。そこで春4月の関東地方の室温に一日当てる。4月の関東の気候は、5月の北海道、ニシン漁切り上げの時候の気温とそれほど変わらない。なので梅雨入り直前の関東の気候を肌に浴び、帰りの夜道でふとマスクを外し風の匂いを嗅げば20年以上前に去った故郷を思い出し流涕こがれ泣きたまふ、のはまた別の話。

 

「まくり」を鰯のように手開きにして中骨を外し、毛抜きで小骨を除く。

肉質は、締ったような感触。

 

一方で北海道名産の山菜、行者ニンニクを用意する

アイヌ語名はキトピロ、もしくはプクサ

北海道弁ではアイヌ葱

植物学上の標準和名はギョウジャニンニク。

浜がニシンに湧くころ山野に萌える、まさに旬の出会い物の素材。

そして古のアイヌ民族が疫病除けの魔除けに用いた植物。

まさに令和3年いまの素材である。

 

開いた「まくり」で行者ニンニクを巻き、串で止める。

 

鍋に昆布を敷いて出汁を取り、まくりを煮立てる。

 

鉢に取り、刻みネギを振りかける。

 

言わば、「焼尻式」と「松前式」を合致させた製法での調理だ。

 

やはり日本料理?
あっさりさっぱりが信条のまくり汁

 

さて肝心のお味。
感想

こんなもの?

 昆布仕立ての塩汁のためか、非常にアッサリした味わい。ニシンから余計な魚油が搾り出されるため、汁の水面には油気も浮かずスッキリした感覚。それでいて、ニシン独特の「渋み」がいい味わいを醸し出している。内部に巻いた行者ニンニクはフワリと火が通り、淡白なニシンにコクを添えている。

焼尻島の伝承では「まくり汁だが、汁は飲まない」とされるまくり汁。
だが、汁までも綺麗に飲み干し完食へと至る。

 もっとも素材は頭も内臓も抜かれたニシン、牙に成長しうる伸びしろを抜き去られ、きっちり管理された環境で保育したからこそ、「こんなもの?」な食感しか得られなかった、とも考えられよう。

白子もカズノコも内臓も抜かない、尾頭付きウロコ付きの生ニシンを5月の北海道の気候で発酵させれば、「和風シュールストレミング」ともいうべきパンチが効いた壮絶な香気に悶絶したのであろうか。

プロフィール
フリーライター
角田陽一
1974年、北海道生まれ。2004年よりフリーライター。アウトドア、グルメ、北海道の歴史文化を中心に執筆中。著書に『図解アイヌ』(新紀元社 2018年)。執筆協力に『1時間でわかるアイヌの文化と歴史』(宝島社 2019年)、『アイヌの真実』(ベストセラーズ 2020年)など。

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