何も知らない初心者からスタートし気が付くとマルチメディアのプロへ
システム構築支援サービスやシステム運用保守サービス、ウェブ制作などを行う「ガリレオアンドヴィーナス合同会社」。代表を務める松下隆司氏は、NTT北海道のシステムエンジニアとして、長年マルチメディアを活用したシステムの企画・設計・構築を手掛け、40歳で独立。その後もインターネットを主流としたメディア環境の変化に伴いながら、常に最先端の提案を続けてきました。そんな松下氏の現場にかける思いや、今後の目標についてお話を伺いました。
強い好奇心がSEへの道を作ってくれた
起業までの松下さんの職歴について教えてください
高校卒業後、北海道の日本電信電話公社(現・NTT)に就職しました。本当は映画関係の仕事に就きたくて、東京の大学を目指していたのですが、高校3年の秋に就職試験に合格したので、大学を諦めて就職の道を選びました。普通科卒でしたので、特別な知識や技術もなかったため、職員の研修施設だった札幌電気通信学園で回路図の研修を受けた後、旭川電報電話局に赴任しました。その後も2〜3年に渡り、東京や鈴鹿、仙台の研修施設でオフィス・コンピュータや通信装置の技術を学び、銀行や社会保険庁、労働省などのオフィス・コンピュータの保守点検を行っていましたが、当時は労働組合が盛んで仕事と同じくらい、組合活動もしなければならず、色々分からない事も沢山あって、正直あまり面白くはありませんでしたね(笑)。そんな時、職場の先輩が、局内側の交換機の増設をする設計の仕事に従事するのを見て、私もあんな風になりたいと思い、強く憧れました。さっそく先輩と同じ、設計の仕事をするための設計の研修を希望したのですが、残念ながら枠がなかったため、希望はかないませんでした。そのため、旭川電報電話局の局内側の職場に転勤希望を出し、局内の通信装置の運用保守を経験しながら、工事や設計の業務に就くことを目指しました。
設計の仕事は期待通り楽しかったですか?
そうですね。自分で望んだことだったので、やりがいはありました。OJTで1年間、東京と新潟に行き、パケット交換機の設計や建設工事を実際に経験することが出来ました。その後、旭川に戻り、2年間、建設工事のリーダーとしての仕事をすることが出来ましたし、まだ、30歳くらいだったと思いますが、設計や建設工事の仕事に関しては、正直、十分満足するほど、やったなという気持ちでした。
ただ、そのうち北海道の局内の建設工事の仕事が段々少なくなってきて…。
その頃、例の憧れの先輩が十勝のモーターサーキットでお客様向けの通信システムの仕事をしていると知って、NTTにも、そんな部署や仕事もあるんだと、また、羨ましく思って(笑)。
それで、前回と同じ様に、先輩と同じ仕事に就きたくて、上司に強く転勤希望を出したところ、運良く同じ部署に付くことができたのですが、配属されたのが、厚別区にある札幌テクノパークでした。
そこでの仕事は、札幌エレクトロニクスセンターに設置されている、オフコンやネットワークの運用保守をしながら、札幌テクノパーク全体のインキュベーションとなる様な、システムや仕組みを提案していくということが、私がいる職場の使命でした。
しかし、これまで局内の機械ばかりをいじってきた人間ですし、いきなりインキュベーションや、パソコンやソフトウェアの世界と言われても、正直、どう進めていったらいいか全く分からなかったんですね。その状況でも、提案をしなくてはならなかったので、とにかく映像や音楽など、自分の興味のままに市場調査をして、私が行き着いたのがマルチメディアのソリューションでした。
具体的にはどのような提案をして、どう展開していったんですか?
今はパソコンで簡単に音楽や映像の録音・録画を行い、CDやDVDを作れますが、当時はCDを作るにもパソコン本体の他に、高額な装置や専用のソフトウェアが必要で、しかもそういった設備は高額で、東京にも数カ所しかない状況でした。それなら、札幌の中小企業や一般の方にも、気軽に使ってもらえるオール・デジタルのスタジオ設備を作ったらどうかと考えました。
提案を進める中で、東京の設備を実際に視察し、調査、提案から1年くらい後に、札幌エレクトロニクスセンターに創設されたのが、「マルチメディア・オーサリング・スタジオ」という会員制の編集スタジオでした。
私は、このスタジオ設備の運用保守の仕事に従事することになりました。
その後、急速な時代の流れと共に、編集設備も当初のCD-ROMから、デジタルビデオ編集機、高速データ転送ネットワーク、DVD編集作成装置、ハイビジョンビデオ編集装置へと、およそ2年ごとに、編集設備は増強されてスタジオの名称も「デジタル工房」へと変わっていきました。
高価なデジタル対応の入出力機器(映像、音響、高精細カラープリンタ、DVDなど)が数多く導入されていきましたが、機材の中核を成すのは、あくまで、パソコンやワークステーションとソフトウェアになります。
また、一番重要なことは、それらの機材を使って当時、まだ黎明期だった札幌の市場で、マルチメディアをビジネスにとして、やり始めている個人や企業、教育機関の方がいらっしゃって、その方達のお役に立てたことではなかったかと思います。
そんなこんなで、気が付くとNTT北海道の部署内では、この分野での第一人者となっていました、もちろん部署には他に、そんなことをやっている人間があまりいなくて、ある意味、自分は異端児扱いでしたけどね。
かなり目立つ存在だったようですが、ほかにも印象的な取り組みがあれば教えてください
最初に、映画会社に勤めたかったと話しましたが、映画「ガメラ2レギオン襲来」が札幌を舞台に撮影された際、金子監督がテクノパークの視察にいらしたのは印象に残っています。子どもの頃からガメラ映画が好きでしたので、その後の制作段階で、制作スタッフへの協力は惜しみませんでした。
振り返ると、NTTで当初は通信機器や建設工事をしてきた自分が30歳を向かえた頃から、パソコンで映像処理ができるようになり、次にインターネットやホームページのような技術も登場したことで、ガメラの映画制作に間接的に携わることができたことがすごく不思議でしたし、とても感慨深いものがありました。 映画館で「ガメラ2レギオン襲来」を観て、映画のエンドロールのクレジットに、自分の名前が載っているのを見たときは、高校生の頃に思っていた、映画制作の仕事がしたいという夢が、ある意味、叶った瞬間でしたね。
40歳で退職し、仲間とともに会社を設立
現在の会社を設立するに至った経緯を教えて下さい
札幌テクノパークでの仕事が一段落した後に、「公立はこだて未来大学」創設時のシステム構築メンバーに選出されました。
数ヶ月、アップル・ジャパンのマーケティング担当の方達とシステム検証を重ねながら、第1期のMacintosh教室のNetBootシステムの基本デザインから構築を行い、他にも「デジタル工房」と同じ様な、マルチメディア系システムの基本デザインから、詳細設計、構築を行いました。
そうした仕事は楽しかったですし、やりがいも感じていたので、このままこの仕事を続けていくと思っていたのですが、その後、サラリーマンによくある配置換えとなってしまい、その部署が、自分のスキルを活かせる場所では無いと思ったのと、社内で早期退職募集や、義弟が社長をやっている会社からの誘いもあったため、40歳で自主退職することを決めました。
その時には会社設立の構想があったんですか
当時は、全く無かったです。退職する40歳までサラリーマンとして大企業のレールの上を走って来ただけの世間知らずでしたので。
それで、NTT退職後に、義弟の会社に技術部長(役員)として転職することになりました。会社は、四国は香川県の高松市にあり、「i-mode」の正規コンテンツ・プロバイダーとして、NTTドコモ四国を主なビジネスパートナーとしてビジネスを展開しており、当時、飛ぶ鳥を落とす勢いだった「i-mode」の情報コンテンツの制作やシステム開発の仕事に従事することができました。
ただ、その会社を半年で退社しなければならない事情が発生し、その後、義弟と一緒に設立した会社が上手く行かなかったりと、40代の後半までにいくつかの会社やフリーランスとして仕事に転職をしたりと、私生活も含めて、暗中模索の苦しい状態が7,8年続きました。
転期となったのは、2009年、48歳の時に北海道の情報通信系の第三セクターに転職して、そこで身につけたインフラ系のサーバーやミドルウェアのスキルのおかげでした。
そこでは、データセンターに設置されているLinuxやWindowsサーバー、仮想サーバー環境をメインに、それに付随するストレージやネットワークの構築から運用保守、さらにサーバ上で動作するウェブやアプリケーションサーバー、データーベース・サーバーの構築や設定に関するスキルを身につけることが出来ました。
2年半の契約期間を終えて、ここで覚えたスキルをベースに、以後フリーランスとして仕事を開始し、2014年12月に今の会社を法人化することにしました。
しかし、年齢も50代中盤となり、いつまでも1人で続けることに限界を感じて、知人に声をかけたり、人材を募集したり、紹介を受けたりしながら、現在の社員8名体制までどうにか持ってくることが出来ました。
メインとなる事業内容、サービス、商品について教えてください
これまでに培った技術と知識をもとにした、システム構築や開発支援がメインの事業ですね。そのほかに、ウェブサイトの制作やドメイン管理、ネット系動画やDVD制作など映像コンテンツの制作、印刷物のデザインに加えて、今後は、エンターテインメント事業を起こしていく予定です。
採用において重視している点や、必要とするスキルレベルについて教えてください
エンジニアは一生継続できる仕事だと思っています、現に弊社の社員や私自身も50代でも現役で仕事ができる環境にあります。
私自身が実質、40代後半から身につけたスキルで仕事をすることが出来たので、若年の経験者はもちろん、30代、40代でも男女を問わず、パソコンやインターネットが好きで、やる気のある方であれば歓迎します。
スキルがなくても人材は育てていくというのがうちの会社の考えですので、年齢や技術に応じた研修制度やスキルアップのためのアドバイスを行いますし、技術に適した職場環境の中で腕を磨き、さまざまな現場を体験することでスキルアップを目指すなど、働きながら技術を高めることができます。
現在、スタッフは30代から50代の7名体制ですが、今年中に10名、再来年までには20名体制まで増やしたいと思っています。
秋からイベント型のフロア「ダビンチ フロア(da Vinci floor)」をスタート
今後強化したいポイントや事業展開について、構想や展望を教えてください
多少個人的な趣味も入っていますが、この先の別事業の展開やウェブのコンテンツへの利用を踏まえて、今年、小型船舶1級の免許を取得しました。ボート免許を持つことで、釣りやクルージングのサービスを提供したり、船上からドローンを使って北海道の海岸線の映像を撮影して動画の制作をビジネスに活用したいと考えてます。
さらに、年内には、イベント型のフロア「ダヴィンチ フロア(da Vinci floor)」を展開します。仕事を模索していた40代の頃、私生活でも色々大変なことがあったのですが、そんな時、自分の癒しになっていたスナックがあったのですが、その店が、ママの病気療養のために閉めることになり、無くなって初めて、働く男性にとっていかに癒しとなる店が大事かということが分かり、いつか自分であの店を復活させようと考えたのが、そもそもの始まりです。
ただ、札幌テクノパークの時代から、「デジタル工房」の企画運用にずっと携わって来たことから、札幌の企業や周りの人の役に立ちたいという思いがずっと自分の頭のどこかにあって、普段、気軽に交流できる場があればという思いがありました。
それと同時に、自分を含めて、弊社の50代の社員が、いつか現役から離れなくてはならなくなった時のために、別な仕事を見つけておきたいという点からも、今回の構想に至りました。
具体的にはどういったことをする場所なんですか?
単にお酒が飲める場所というのでは無く、日常の癒しとビジネスというか生活の糧の両方を得られる場所として運営していきたいです。25名規模の空間にプロジェクターや音響設備、カラオケなどを設置し、会員制にして、各会員が各種イベントや打ち合わせ、会合、オフ会、コーチングなど会員が自由に開催できるようにしたいと思っています。そして、IT会社がやるのに相応しくウェブサイトやSNSを活用し、会員制にすることで、スタジオの時と同じように、今度は「ダヴィンチ フロア」としての場を運営をすることで、今の時代に合った情報発信や、さまざまなビジネスの形に展開していくと思います。
弊社のロゴの下には、「Design for Communication」というキャッチフレーズがあります。この意図は、ウェブやシステムなどのデザイン(設計)や、通信、GUIに限らず、最終的には人対人のコニュニケーションのスタイルまでも設計、構築、運営していきたい、いくべきと言う思いがこもっています。そう考えると「ダヴィンチ フロア」というのは、まさに人対人のコニュニケーションの場を創って、運営していくことなので、弊社にとっては、全くぶれていない事業と言えるのではないかと思っています。
取材日:2019年8月6日 ライター:八幡 智子
ガリレオアンドヴィーナス合同会社
- 代表者名:松下 隆司
- 設立年月:2014年12月
- 事業内容:システム構築支援/運用保守サービス、WEB制作
- 所在地:〒064-0912 北海道札幌市中央区南12条西1丁目2-3
- URL:http://galileo-venus.com/
- お問い合わせ先:上記HPの「お問い合わせ」より