グラフィック2019.05.22

自分の世界観を表現する楽しさを仕事に繋げた 本田マミのキーワードは「バスケットボール・家族・仲間・伊達政宗」

仙台
アートディレクター/グラフィックデザイナー
Mami Honda
本田 マミ
拡大

拡大

拡大

拡大

拡大

拡大

少年のような印象を持つ本田マミさん。プロスポーツチームのWebサイトのデザインや、小冊子を発行するなど、幅広くデザイナーとして活躍されています。小学校から高校までバスケットボールに向き合い、常にレギュラーの座をかけた鍛錬の日々を過ごされました。応援してくれる家族や周囲の方の期待に応えたいという思いと、学生時代に培った自らに何かを課すという習慣が、現在も自分の生き方の大事なベースと語ってくださいました。東京で過ごした大学時代、改めて地元の英雄である伊達政宗が造った仙台の魅力を再認識したそうです。特にUターンという意識はなく「いまはここにいる」という感覚で活動する本田さんのこれまでとこれからのお話を伺いました。

 

幼いころの楽しい感覚を仕事につなげたいと考えた選択がデザイナー

高校生までバスケットボール一色の生活だったとお聞きしましたが…

小学校から高校まで真剣にバスケットボールに取り組んで、当時はレギュラーポジションを勝ち取るために、常に自分を追い込む日々を過ごしました。でも、バスケットボールプレイヤーでご飯を食べていくことは難しかったので、北海道にある大学の情報メディア学部へ進学したものの、これまでとはうって変わった環境で、授業を受ける以外はまったくの自由で、自分の生活観と違い過ぎてなじめず、結局1年でその大学を辞めて仙台へ戻りました。

そこで美大に行こうと思われたきっかけとは?

何をしていたら楽しいと思えるんだろうと考えました。幼いころ、ビデオカメラで友人を撮影してプロモーションビデオを作ったり、テープに録音してラジオ番組を作ったり、学校のお楽しみ会でコント・漫才などの脚本を書いたり、自分の世界観をビデオやテープなど、何かを通じて表現する遊びがとても好きだったことを思い出しました。この好きなことの延長のような仕事に就きたいと、デザインや映像表現などが学べるところへ行こうと決意して、東京の美術大学へ入り直しました。

美大では何を専攻されたのでしょうか?

コミュニケーションに関わるあらゆる媒体を使っての表現方法を研究するコミュニケーションデザインを専攻しました。自分の楽しかった遊びが具体化されて、定義づけられていく感じでしたね。全国からそれぞれ秀でた才能を持つ個性的な人々が集まる場でしたから、そこに身を置いてみて、バスケのレギュラーポジションを勝ち取るため、努力を重ね続けることが当たり前だった自分には、プレッシャーがあって切磋琢磨できる環境がぴったりとはまった感じでした。

グラフィックデザインを仕事にしようと思われたきっかけは?

当時mixiが流行し始めていて、わたしは学生時代の作品や卒業制作の企画とその経過などを掲載していました。それを見てくださった仙台にある会社の社長から、直接連絡を頂き、モバイルコンテンツの会社を立ち上げたけれど、デザイナーが不足しているので、もしアルバイトでよければ来ないかというオファーをいただきました。卒業時は就職氷河期で最初から正社員での就職は難しく、アルバイトから正社員への登用が当たり前になっていた時代でしたので、それもいいかなと仙台に戻り働き始めました。

個性表現とチームプレイのバランス感覚を身に着けた会社員時代

デザイナーとして始めた仕事についてお聞かせください

当時のモバイルコンテンツは、ガラケーの待ち受け画面や着メロなどが主でしたが、新しい媒体で機種ごとに仕様が異なっていることもあり、技術面やノウハウが確立されていませんでした。クライアントの要望を聞いて、「できますか?」には、まず「できます!」と答えておいて、持ち帰って調べて試行錯誤してできるようにするという業界でした。モバイルコンテンツを得意とする企業が全国的に少ないこともあって、仙台の会社ですが8割くらいが東京の大手広告代理店からの受注でした。猛烈に忙しい状況で、寝る間も惜しんで、先輩や仲間と夢中で仕事をしていました。

マネジメントの素養が身についた経験についてお聞きできますか?

会社の部門は企画・デザイン・開発と分かれていて、より魅力的でコンペで勝てるものを自由に提案したいという企画側と、開発側ではシステム上できるのかの確認も含め、部門横断的に連絡・相談しながらデザインを行う状況でした。私はデザイナーだから自由に表現したいというのではなく、データ容量やスペックの制約のなかで、精一杯クライアントの要望に応えていこうと、チームプレイで作り上げる環境でした。私にとって、個性とチームワークのバランスを踏まえて仕事を進めるチャンスだったと思います。

モバイルコンテンツ以外のデザインを始めたのはいつからですか?

2010年に同じ会社で働く数人のメンバーで独立して会社を作ることになり、そこで私も働くことになりました。会社は違ってもメンバーはあまり変わりませんでした。少人数の会社でしたので、モバイルコンテンツ制作を受注しながら、紙媒体やパソコンのwebサイトデザインなども行うなど、順調に業務の幅を広げていた矢先、2011年の東北大震災が起こりました。会社自体の被害は少なかったのですが、業界全体の広告自粛の打撃が大きく、会社の利益の柱として大きかったプロモーション関係の仕事がストップしてしまいました。

厳しい状況をどのように乗り越えられたのでしょう?

制作の受託だけではなく、自分たちでサービスを生み出す体制にしようと発想を転換して、流行しはじめていたソーシャルゲームコンテンツの自社開発を始めました。震災から1年経ったころ、震災復興事業の一環もあったと思いますが、東京のゲーム制作会社から「仙台の勢いのある会社と組んで地方からより良いものを生み出したい」という吸収合併の話が提案されて、それ以降は東京に本社がある会社の仙台事業所に所属して働くことになりました。

アートディレクターという肩書を与えられたのはこのころから?

東京のゲーム制作会社に所属する間は、マネジメント業務の比重が大きくなりました。ひとつのゲーム制作には、ゲーム中に登場する武器など、イラストの比重がとても高く、海外も含め外部の方へ外注する必要があって、多数のデザイナーの進行管理が欠かせません。そこでは、浅くてもいいので海外の文化、国民性などを知ったうえでやりとりを行うことが大切で、日本人であっても、年齢なども含めバックボーンがみんな違いますから、多様性を尊重した応対が必要です。私にとっては自然な感覚だったこともあって、マネジメントは苦ではなかったんですね。

自分の生きるベースを知った地元を離れるという経験

地元以外での生活は本田さんに何をもたらしましたか?

大学の卒業制作が「伊達政宗とブランディング」というテーマで、政宗が仙台で行ったブランディングについて調べて、政宗が現代人だったら行うのではないかという仙台のプロモーションを考えて、デザインを行いました。実は大学に行くまでは地元が好きではありませんでした。小学生のころから東京の親戚のところへ行くことが多かったせいか、東京の真似っぽいな、あか抜けないな…と比較していたんですね。でも大学で全国から集まった学生が、地元をアイデンティティのごとく好きでいることが当たり前というのが新鮮で影響されました。最後に結局仙台のことをテーマにしたのは、4年間東京にいて東京のことを吸収するというよりも、より地元の仙台について考えた期間だったからでした。

と同時に、私自身は不特定多数の方からの承認よりも、家族や仲間に誇れるような生き方をしたいという思いがベースになっていると気付かされました。好きな地元・家族・仲間が「中」で、何事も「中から外を見る」という感覚です。少し質問からずれますが、中から外を見るうえで大事なことは、関わる方々にもそれぞれの「中」があるということ、人の多様性を尊重することだとも気づかされました。

本田さんにとって地元とは?

伊達政宗…ですね。「戦国BASARA」などの武将系のゲームなどで、伊達政宗を知るのがスタートというのでもいいのですが、普通に歴史を学ぶと伊達政宗は武将よりも偉大なプロデューサーと捉えられます。命が軽く散っていく戦において、士気を高めるために奇抜な(伊達な)装束を身に着けさせたり、飢饉に備えて果物がなる木を植えろと指示して、それが「杜の都」の所以となったり。その伊達政宗が治めた土地で、少なからず政宗の影響を受けている仙台というのは、いいところなんじゃない? と思っています。地元にある当たりまえのもの・ことを調べてみたり、知ることが大事なことかと思いますね。

Uターンしてみていかがでしたか?

Uターンを意識していたわけではなく、たまたまお声がけいただいたことがきっかけで、私自身は社会人になった時から、基本的にコミュニケーションはSkype、海外などの遠方で会えない方とはビデオチャットで会議する職場ということもあって、どこに在所しているかを意識したことがありませんでした。極端に言うと、いま言語は日本語で日本にいるなという感覚です。ノートPCとネット環境があればどこにいても同じかなと思っています。その反面、直接会って相談しながら進めたほうが良いという場面もありますので、クライアントに合わせて切り替えています。

これができたら引退してもいいとさえ思える目標に向かって

独立されたきっかけについてお聞かせください

社会人になって、いつも守護天使のような先輩方と会社に育てられてきました。そこで行っていたグラフィックデザインからデザイナー、デザインだけではなく構成を考えるようになったときにアートディレクターと名付けてもらいました。では、私個人の市場価値はどうなんだ?と試したいと考えるようになって、2018年1月に独立しました。会社では東京からの受託が多かったのですが、これからは仙台の企業さまとの仕事の実績を徐々に積み重ねて伸ばしていきたいと考えています。

本田さんにとって達成感を感じることとは?

達成感を得る条件は、ここに関わる仕事ができたら引退してもいいなと思っていた3つの分野を経験することでしょうか。ひとつはバスケットボールに関わることですが、バスケのアニメやアメリカのプロバスケットチームへゲームの企画を提案する経験ができました。2つ目は母が勤めていた化粧品会社の仕事です。これもある商品のWebサイトを担当させていただけたので達成感は得られました。残るは子どものころから憧れているスポーツブランドとの仕事です。

実は子どものころ、そのスポーツブランドに「どうすればそこでバスケットシューズのデザインの仕事ができますか?」という手紙を書いたんです。すると返事の手紙が送られてきて、ブランドのステッカーと缶バッジが添えられていました。「まずデザインと英語を勉強してください」と、ブランドロゴが印刷された便せんに書かれていました。興奮しましたし、子どもの手紙にきちんと向き合い応えてくれる姿勢に感動しました。現在はSNSなどで発信することもできますし、いつかこのスポーツブランドの仕事がしたいという夢を現実に変えたいと思っています。

目標についてお聞かせください

自分の区分としてメジャーとマイナーに仕事を分けて考えていて、デジタルに疎い一般の方や、家族や友人がポスターやピラー広告(交通広告において柱周りの広告を指す)を見て「これは本田が手掛けたデザインだよ」と、周りに自慢気に話してもらえるような仕事がメジャー。自分のグラフィックデザインをまとめた小冊子とステッカーなどを販売しているのですが、他のデザイナーと二人でデザインユニットを組んでいて、二人だから生まれるものをこの小冊子のなかで試したりもしています。このような自分のやりたいことをデザインの中で行う仕事をマイナーと区分して、両者のバランスを考えて仕事を行い黒字化を目指していくことが現在の目標です。 簡単ではないことですが、頑張ろうと思っています。

取材日:2019年4月12日 ライター:桐生 由規

プロフィール
アートディレクター/グラフィックデザイナー
本田 マミ
宮城県多賀城市生まれ仙台市育ち。東京の美術大学を卒業後、2006年仙台市にてゲームコンテンツ制作会社に就職。ガラケーのグラフィックデザインをキャリアスタートとし、その後、モバイル、PC、紙媒体のデザインを担当。2012年から海外を含むデザイナーのマネジメント業務、アートディレクションも行う。2018年HONDA GRAPHICSとして独立し、フリーランスとして活躍中。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

TOP