「みんなと仲良くしましょう」は間違いです。

番長プロデューサーの世直しコラムVol.69
番長プロデューサーの世直しコラム 櫻木光

小学校の頃の僕の通知表には決まって先生から書かれていた言葉があります。 「みんなと仲良くしましょう」 でした。 その先生の言葉を見るたびに母親が不機嫌になっていた様な気がします。 「なんでみんなと仲良くできないのよ!」と。

子供の頃の僕は、相当へんちくりんな子供だと思われていたふしがあります。 大好きな人としか仲良くできなかったからです。

ただただ、「みんなと仲良くしましょう」という意味が よくわからなかったのです。 なんで仲良くしたく無い人と仲良くしなければいけないのか?無理矢理みんなと関係する事無いし、どう考えたって人には好き嫌いがあり、それは無くそうと努力しても無理がある。だってできないもん。大事にしている物も違う。

だけど陰口だけはたたきたくない。文句があるなら直接言うぜ。それで喧嘩になっても仕方ない。 俺とお前は違う人。それの何が悪い?やりたくない事を人のペースに合わせてやりたくないもんね。いやなら無視してくれよ。関係ねえジャン。と思っていました。正直だったんだと思います。

逆に言うと言いたい事をいいまくり、やりたい事をする、我慢しない僕の性格は敬遠されがちではありました。面倒くさいガキだったのでしょう。 中学校に入ったら通知表に「協調性が足りません」と書かれていました。

しかし、人と仲良くしなければいけないというプレッシャーから、言いたい事も言えず、やりたい事もやらないで、おとなしくしていなければいけなかった人間がどれだけいることか?そのおかげで、いじめられないように自分の事を卑下して生きている気の弱い人がどれだけいることか? 先生達が気軽に子供たちに押し付ける「みんなと仲良くしましょう」がどれだけつまんないプレッシャーになっていることか。

「みんなと仲良くしましょう」というプレッシャーは、いじめの根源にもなっていると思うのです。

  1. みんなに同調しない
  2. 仲良くする気がないと批判される
  3. 排除される
という順番で集団は襲いかかってきますね。「信じられない。」とか言って。いじめの基本形です。非常に日本的というか村社会的というか。

人と仲良くするに越した事はないけれど、無理矢理みんなと仲良くする様な事は、僕は子供の頃からくだらない事だと思っていたのです。やなこったい。 友達100人できる訳ねえじゃねえか。へんてこな歌うたってんじゃねえよ。と。 友達が100人居たら、相当自分を隠して我慢して生きなきゃいけねえじゃねえか。

今、子供の頃の自分に「なんでみんなと仲良くしなければいけないんですか?」と問われたら 「先生の言う仲良くは、とりあえずケンカをするなという意味で、大嫌いな人を大好きになって仲良くしろではありません」と答えるでしょう。それが多分自然だからです。

「みんなと仲良くしましょう」は建前です。「原子力発電は安全です」とかそういう話に近いと思う。そんなロジックはもう崩壊しかかっています。 何かあったら誰かが助けてくれるだろう。ということを漠然と期待して、依存し合うことを前提に、腹の立つ事にもへらへらわらって表面上やり過ごす。という事はもう間違いなのです。そんな事してストレスをためて、当事者の居ないところで陰口たたいていたり、インターネットの掲示板に匿名で他人を誹謗中傷したりする方がどんだけくそまみれか。それをちゃんと考えた方がいい。

へらへらして自分の思う事を押し殺して生きるという生き方が、楽で、機能していた時代も確かにあったかもしれません。高度成長期にはやむなしだったのかもしれませんが、いまや時代遅れです。

大切な事は、世界中が相手にしてくれなくても、自分には続けられる事がある。というほどの自分の楽しみを見つけ出すことだと思うのです。それさえ見つければ、他人のプライベートに土足で入り込む暇もなくなる。変な事で焼きもちを焼いたり、妬んだりしないで済むようになるでしょう。いつも他人と自分を比べて、あれよりいいとか悪いとか考えないで生きていけると思うのです。自分より劣っていると決めつけた人間を見ながら優越感に浸る必要もない。 決して簡単ではないし、「それができれば苦労しないよ」ってハナシなんだけど、それでも、そこを目指すべきなんでしょう。

僕たちは、憲法はあっても、その中身、つまり法律で規定するまでもないモラル的な価値観=日本人としての根本倫理を持っていない、そんな国に育ってしまった哀れさもある。それを宗教的な倫理観が担っている国もあるけれど、僕たちは金を拝んで暮らしている。つまり、「人間としてどう生きるか?他人とどう対峙するのか?」というアナウンスがどこにもないのです。 日本にはかつて、「教育勅語」がありました。あれが一番「根本倫理・道徳」に近いでしょうか。そういう意味では、迷える日本人のために現代版教育勅語的な道徳的な規範を確立するのが実は急務かもしれません。憲法改正論はその後にしてもらいたい。

そこで語られるべきは、「個人としての幸せの追求」でなければならないでしょう。それができた上で、他人との関係の構築。という順番にしておかないと、くそみたいないじめは無くならないでしょう。個人としてしっかり立った上で他人を尊重し、集団や組織の中での自分の立ち位置のバランスを考える。 それをやる前に、人格形成をする前に「みんなと仲良くしろ」ということばかり押し付けるから話が変になっているのでしょう。

かくいう僕も、子供のころと比べて、仕事では相当鍛えられました。不用意な発言で血まみれになった事もありますし、我を通した事が間違っていたと感じる事もあります。逆に潔すぎて大損したこともある。自分はしっかり持つべきだけど、自分の方が物を知らなかったりする事もあるし、勘違いしているときも、立場や視点が変われば白が黒になる場合もある。そういうことを知ってはじめて、大人の対応はできるようになりました。

それに、好きな人とだけ仕事が出来るわけじゃありません。商売としては、仕事をくれない聖人よりも、自分と仕事をしたいという悪人のほうが実はありがたい物です。でも、そうやって仕事をしていると、悪人の言っている事がいつも悪だとは限らないし、面倒くさい人の言っている事に真実がある事の方が多いと分かってくる。だから、一般的な都合で面倒くさい人を嫌がってはいけないのです。自分も面倒くさいんですが。面倒くさい人は、一概に、他人との関係を考える前に、自分はどうあるべきかを考えている物です。その他人の「どうありたいか」を自分の「どうあるべきか」で受け止めなければならない。そこに生まれる関係性に信用が生まれると思うのです。信じ合えないと他人とはつきあえないです。

「みんなと仲良くしましょう」は集団を束ねている奴の、面倒くさい事になりたくないためのおおざっぱな論理です。 ものすごいいい事を言っているようで中身がありません。 教育勅語には「朋友の信」という項目があって、 友達はお互い信じ合ってつきあいましょう。 と書いてある。 つまり、他人と信じ合える関係を築いて、持続する努力をしながらつき合いましょう。 ってことなんでしょうが、それならわかります。

Profile of 櫻木光 (CMプロデューサー)
~株式会社リフト 第一制作部 チーフプロデューサー~

  • 1968年 佐賀県生まれ、44歳。
  • 1991年 ニッテンアルティ入社(旧 日本天然色映画株式会社)
  • 2000年にプロデューサーに昇格。
  • 2009年 社名がリフトに変更。

プロデューサーと言ってもいろんなタイプがいると思いますが(日本にはCMプロデューサーと名乗る人が2000人もいるそうです)、自分のケツを自分で拭こうとしているプロデューサーは何人いるでしょうか?矢面に立つのは当たり前だとつっぱって仕事をしていたら、ついたあだ名が「番長」でした。根性論を書いているかと思ったら、意外に現実論者でもあります。

<主なプロデュース作品>

  • AGF ブレンディボトルコーヒー(原田知世さんと子供)
  • 日清食品 焼きそばU.F.O
  • マルコメ 料亭の味
  • リーブ21 企業CM
  • コーセーサロンスタイル 『髪からはじまる物語」行定勲監督Webムービー
  • クレイジーケンバンドPV
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