少なくとも、どういうものを 狙って作るかという思考はないです

Vol.10
映画監督 小泉堯史(Takashi Koizumi)氏
 
黒澤明監督の遺稿を作品化した『雨あがる』でデビュー。国内外の賞を数多く獲得した、大型新人――その素顔は、デビュー時58歳!しかも「黒澤さんが存命でいらっしゃったら、監督デビューはしていないと思う」と言ってのけた人。監督だけが映画作りの真髄というわけじゃないと信じ続けて、最終的にはまわりの後押しでメガホンを取るようになったという意味でも“大型”な方なのである。これまた賞を総なめにした『阿弥陀堂だより』を経て、監督作品3作目の『博士の愛した数式』が1月21日から公開される。個人的には、そろそろ時代劇を切望していたんだけど、あの小泉さんがあの小川洋子さんのベストセラーをどう料理するのか?と考えるのもなかなかに楽しい。なので、今回は、小泉尭史さんに会ってきました。

この物語は、小川さんの詩的な物語と言っていい。 だから、ストーリーを追おうとすると、とても難しい本なんです。

監督作品3作目に『博士の愛した数式』を選んだのには、特別な理由があるんですか?

特にはありません。

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オファーが来たから?

いや、本屋さんで見つけたから(笑)。発売されてすぐ。1週間も経ってなかったと思うんですけど、一度読んで、気に入って、ぜひ映画化したいと思った。それでアスミック・エースの荒木さん(プロデューサー/荒木美也子氏)に「これ、映画化したいんだけど」と言ったら、すぐ新潮社に当たってくれて、とんとん拍子で映画化権がとれたんです。

2作目、3作目が原作ものだということには、理由がある?

いや、それもありません。映画って自分でやりたいと思ったからといって、簡単にできるものではないです。オリジナルの脚本もいくつか書き溜めていますが、今回は、そちらではなく、この作品に、アスミック・エースが手を挙げてくれた。そういうことです。

『雨あがる』が2000年公開で、『阿弥陀堂だより』が2002年公開。そして、2005年に『博士の愛した数式』。デビュー以来、かなりいいテンポで作品を手がけているように見えるんですけど。

いや、むしろ、もうちょっとピッチを上げないといけないなというふうに思います。一緒にやってるスタッフはみんな僕より年配ですから(笑)。みんなにも「早くやれよ」言われているし、僕自身もそう願っている。理想は年に1本のペースなんですが、なかなかそうはならないですね。

この原作を脚本化するに当たって気をつけたのは、どんなところですか?

この物語は、小川さんの詩的な物語と言っていい。だから、ストーリーを追おうとすると、とても難しい本なんです。そこで、数学の世界をいかに映像化するかということにポイントを置きました。例えば素数なんていう、口で言ってもわからない、耳で聞いてもわかりにくいことを、どんなふうに料理したら観る人に伝えられるのだろうということ。その辺に解決策が見つかれば、うまくいくだろうと思って取り組みました。

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具体的には?

原作の最後に、ルート(主人公の家政婦の息子)が試験に合格し、来年の春からは中学の先生だという1行がありました。そこを膨らませたんです。教壇に立ったルートが黒板を背にし、数学の解説をし、博士の思い出を語る。「黒板を前に椅子に座している前半と、黒板を背に立っている後半。自分の一生は、黒板に向かって180度回転すれば全部語れる」――西田幾多郎という人が京都大学を辞める時の言葉です。それを思い出して、「黒板を使ってみよう」と思い、これならなんとか小川さんの世界を表現できるかなと考えました。だから、厳密に言うと、あのシーンは、回想ではないんです。博士の自宅の黒板と学校の黒板とを同時並行にしていけば、小川さんの持っているその数学の世界をなんとか表現できるだろうなと。そういう発見をして以降は、脚本を書くこと自体がとても楽しくなってきたんですね。

黒板を思い浮かべたら、一気に?

そうですね。そうなってくれば、頭のほうから、どんどん。僕は箱書きはしないで、頭から一気に書いていくほうなので。スムーズに、引っかからず書き上げました。

監督って、何ができるわけじゃないんです。キャスティングした 俳優との信頼関係がないと何もできないものだと思っています。

デビュー作の『雨あがる』が鮮烈だったせいか、『阿弥陀堂だより』や『博士の愛した数式』みたいな現代劇の、しかもハートフルな作品に触れると、「ああ、小泉さんってこういうハートフルなものが作りたい監督なんだ」と感慨深いんですが。

自分ではわからない部分ですよね。自分で素直にこれを作りたいと思うものが、観客にどういうふうに受け止めてもらえるかというのは、やってみないとわからない。少なくとも、「どういうものを狙って作るか」という思考はないです。素直に、これが作りたいなと思うものに出会い、それをなんとか作ってみようかなと思って取り組んできただけです。

原作には、あの博士が野球上手だという設定はないですよね。

それはシナリオを書いている時すでに……、寺尾さんに博士をやってもらうつもりだったので……。寺尾さんは野球が上手。上手と言っても、並の上手さではないというのを知ってましたから(笑)。実は黒澤組は、撮影の合間によく野球をやったんです。そこで、寺尾さんの野球の腕と並外れた運動神経は、知っていましたから。それを生かさない手はないと思いました。「野球も上手な博士」という設定は、すぐに決まりました。

実際の撮影の現場で苦労されたことは何かあるんですか?

いや、あんまりないですよ。

さくさくと進んだ。

僕は撮影は速いです。毎日、だいたい5時ぐらいには……、ちゃんとお風呂に入って、ご飯が食べられるくらいに、いつも終わりますよ(笑)。

深津絵里さんのキャスティングには、どんな狙いが?

いろいろな候補の中から、まず会ってみようかなと思ったのが深津さんでした。お会いして、本の話などをして、すぐに「ああ、この人にお願いしてやってくれるんなら、やってほしい」となった。

主要な配役は、役者さんに会ってから決める?

キャスティングは監督にとって、とても重要です。極論すればシナリオがきちんとしていて、キャスティングもきちんとしていれば、あとは三流の監督だってなんとかなるものです。だから、とても神経を使います。自分の目で確認してからでないと、絶対に決めません。

それは、脚本を執筆中に持っていたイメージにぴったりの役者を探すということですか?

ぴったり、ということではないですね。要するに、その家政婦という役を、この人だったらきちんと掴んで、演じてくれるかどうかということ。会った時にそうした確信が持てたら、あとはもうその人を信頼して撮影します。

寺尾聡さんは、監督作品すべてに出演なさっている。そういう意味での信頼感は、絶大だということですね。

もちろんそうですね。まずそういう信頼関係をきちんと作っておくことが大切だと思う。それがないと、演出とはても大変な作業になる。特にこの映画は大きなフルオーケストラではなく、弦楽四重奏みたいな、室内楽に近いもので、言うなれば寺尾さんがコンサートマスターみたいなもの。全体の調和を作るということに大きな役割を果たしてくれました。監督って、何ができるわけじゃないんです。キャスティングした俳優との信頼関係がないと何もできないものだと思っています。

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シンフォニーと同様に、映画にも、ここだけ観てくれとか、 ここがいい、ここがポイントだということはないんです。

リハーサルには時間をかけるんですか?

リハーサルは、かなり少ない撮影だったと思います。唯一、教室の場面は、授業のやり取りを組み立てるためにリハーサルを重ねました。

あのシーンは、このストーリーを引っ張っていく上でかなり重要なシーン。ずいぶん、プロットを練ったんでしょうね。

そのプロットというのはどういうことですか?先ほども触れましたが、僕は脚本を頭から書き始めて、書き上げる作り方なんです。「ラストはこうなるだろうな」という予測はあったにしても、頭からずっと書いていくので、例えばどの辺で教室のシーンに行こうとか戻ろうとかは、書きながら自然に固まっていきます。

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では、その辺は大きな計算はしない?

書く前に、自分なりに創作内容を作って、この映画の中で何をやろうかとか、そういうことはアトランダムに練りますね。それはシーンごとじゃないし、何か思いついたこととか、そういうことはあるけれど、書き始めたならば、だいたい毎日毎日自然の流れの中で書いていきますね。その中で、人物がうまく動いてくれることが大事なんです。

今回、主な登場人物が少ないですよね。弦楽四重奏的な現場というのは、そこから生まれている感覚なんですか?

そうですね、小川さんの原作自体がそういう本ですよね。一番大変なのは原作を書き上げることだと思います。何もないところから形あるものを創るというのは、本当に大変なことなんです。だから、この本を映画にしようと思ったら、やっぱり書いた人、小川さんに対する敬意はとても大きなものでした。当然、小川さんの表現しようとするものを一生懸命わかろうということは、心がけます。例えばこの人物をどう生かそう、映画的にもう少しこうやってみようか考えた時には、必ず、「それは小川さんが描こうとした人物像からはずれていないだろうな」という確認作業をしています。その結果が、弦楽四重奏なんだと思います。

今回一番気に入ったシーン、ここをまず絶対見てほしい、みたいなシーンというのはありますか。

それはないです。僕は、映画は音楽に近いものだと思っています。シンフォニーの中の、あるひとつのフレーズだけを評価するという聴き方はないですよね?同様に、映画にも、ここだけ観てくれとか、ここがいい、ここがポイントだということはないんです。その前後があってはじめて、そこが生きてくる。カットカットすべてが非常に大事なものであって、そのつながりを切り離されたら映画というのは成り立たないんですよ。だから、どのシーンがいいとか、どこがポイントだっていうことはないんです。やっぱり全体なんですよ。全体でひとつなんです。

早くまた、みんなと一緒に仕事がしたい という気持ちが活力になってる。

以前、あるインタビューで、助監督時代は、作品と作品の間に海外旅行をするのが趣味で、それがまた創作意欲にも結びついているとコメントされていました。今も作品の合間に海外旅行されてるんですか?

いや、できなくなりましたね。これがあるから(笑)(※筆者注:インタビューのこと)。助監督時代は撮影が済むと、ぱっと終わってました。あとは黒澤さんがいますから(笑)。僕は、助監督として稼いだお金を持ってるうちに海外へ。ところが、こういうことになると、終わってもずるずるっと、公開までずっといろいろ忙しい。

じゃあもう監督デビュー以後は、それ以前とはライフスタイルが変わった?

変わっちゃったんですね。

では、現在は、海外旅行に相当するような息抜きとか、充電は?

「じゃあ、他に」って言っても急には見つからないですよ。むしろ、こういう取材対応をしている時期に、次の作品のことを考えるようになりましたね。だから、例えば、「いい本に巡り会いたい」なんてことを考えてます。あるいは、「いい企画を立てたいな」と。早くまた、みんなと一緒に仕事がしたいという気持ちが活力になってると思う。スタッフの人たちが「また次をやろう」と言ってくれること自体がうれしいし、そういうことを考えるのがひとつの責任だと思うようになりました。

今すぐにでも形にしたい企画もあるんでしょうね。

ありますね。ただ、それは、手を挙げてくれる方がいるかどうかにかかっているし、さらに言えば、今手がけている1本がみんなに喜んでもらえて、「もっと頑張れよ」と言ってくれる力が一番大きいんですよね。僕らは、それがあればこそ次が撮れる。だからとにかく、1本1本丁寧にやっていくことを続けていきたいと思っています。

Profile of 小泉堯史

profile

1944年11月6日、茨城県水戸市生まれ。水戸第一高等学校、写大(東京工芸大)を経て、早稲田大学を卒業。’70年に黒澤明、木下恵介、市川崑、小林正樹の4人の巨匠監督によって組織された四騎の会所属となり、以後、黒澤明監督に師事する。’71年に黒澤監修によるテレビ用ドキュメンタリー『馬の詩』に助監督として参加。’73年には『デルス・ウザーラ』制作のために黒澤監督が旧ソ連に行き、不在のため市川崑、木下亮、堀内申、中平康、吉村公三郎などの監督の下で助監督、スチールカメラマンとして働く。また、その頃東南アジア、インド、ネパール、中近東、北アフリカ、ヨーロッパなどに放浪の旅に出た。’78年の『影武者』制作の際は、シナリオ執筆のため脚本家の井出雅人とともに伊豆へ行き、黒澤監督の資料調査などを手伝う。以後は『影武者』(80)、『乱』(85)、『夢』(90)、『八月の協奏曲』(91)、『まあだだよ』(93)と、黒澤監督の全作品にシナリオ準備の段階から助監督として参加。また、’85年にNHKで放映されたドキュメンタリー『光と影(ポルトガルの騎馬闘牛)』、’97年のテレビ東京放映によるドキュメンタリー『陽光のミャンマー紀行』で監督を務めた。’00年、山本周五郎原作による黒澤監督の遺稿脚本『雨あがる』で、劇場映画デビューを果たす。ヴェネチア映画祭「緑の獅子賞」、山路ふみ子映画賞を受賞し、世界中で絶賛され大ヒットを記録した。さらに、日本アカデミー賞最優秀作品賞をはじめ、’01年日本アカデミー賞で最優秀賞8部門を受賞。劇場映画2作目の『阿弥陀堂だより』(02)では、日本アカデミー賞優秀部門12部門を受賞した。今、最も良質な日本映画を作り出す監督として、注目を浴びている。

【作品】 2000年 『雨あがる』 2002年 『阿弥陀堂だより』 *** 2005年 『博士の愛した数式』 1月21日(土)より、渋谷東急ほか全国松竹・東急系にてロードショー http://www.hakase-movie.com/

 
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