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とことん「絵」が好き。突き抜けた気持ちが作り上げた巨匠

Vol.157
画家、デザイナー、イラストレーター 天野喜孝(Yoshitaka Amano)氏
Profile
1952年生まれ、静岡県出身。15歳で株式会社タツノコプロ(旧、株式会社竜の子プロダクション)に入社。アニメ『タイムボカンシリーズ』をはじめとするキャラクターデザインを手掛ける。独立後はゲーム『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインを担当。本の装丁や舞台美術、衣装デザイン等を幅広く手掛け活動は多岐に渡る。
ゲームやアニメを少しでも嗜む人なら、一枚の絵を見ればすぐに彼の作品とわかるだろう。アニメ『タイムボカン』シリーズや、ゲーム『ファイナルファンタジー』シリーズのキャラクターデザインでお馴染みの幻想的な絵柄で人気を博す、天野喜孝さんである。今回は天野さんの仕事の変遷を中心にお話を伺ったところ、常に新鮮な楽しみと進化を追い求める天野さんの姿が見えてきた。

タツノコプロダクションにて、15歳ではじめた絵の仕事

画業をはじめたキカッケを教えてください。

タツノコプロダクションですね。
僕は静岡出身なんですが、中学3年生の冬休みに東京の国分寺へ引っ越した友人のもとへ遊びに行ったんです。その友達は漫画を描いていて、絵が共通の趣味でした。国分寺には当時漫画家の先生がたくさん住んでいて、そのなかにタツノコプロダクションもあったんですね。漫画家の先生のところへ見学に行こうという話になって、最後にタツノコプロダクションへ行きました。
プロダクションなので、友達の家で描いた絵を持って行きました。あまり覚えていないんですけれども、そのときに「入りたい」みたいなことを言ったらしいんですよ。静岡に戻ったあと、採用通知が届いて、15歳でタツノコに入りました。それがキッカケです。

お仕事をはじめてみて、いかがでしたか?

楽しかったですね。それまでは「勉強しなさい!なんで絵なんて描いているの」って怒られたのが、絵を描くと「なんて勤勉なんだ!お前は偉い」って褒められるんですよ。もちろん、仕事は大変なこともあるんですが。

27歳ごろ、出版社への持ち込み営業を始める
画風が完成したのは、イラストの仕事の最中だった

その後、フリーになった理由を教えてください。

タツノコでの仕事は、最初はアニメーターで、原動画など動きのほうをやっていたんです。でも若いうちから仕事をしていたので、18歳ごろにはキャラクターデザインもやるようになりました。

キャラクターデザインというのは、作品は人の目に直接触れないんです。もちろん、テレビを通して作ったキャラクターが動くんですけれども、それはアニメーターさんをはじめとした第三者の人が関わって、作品として成立するもの。これが絵描きとして、すごく狭い世界の中にいるように思えてきたんですね。自分の絵描きとしての可能性は、1つの組織にいるだけではわからないんじゃないかと考えた。もちろん組織の中では、それなりに評価されていたんですけど。でも世の中広いし、絵の上手な人がたくさんいるなかで、じゃあ自分はどうなんだろうって疑問を持ちました。
それで25歳ごろから、仕事の合間に絵を描きためて出版社に持ち込んでいました。はじめて採用されたのが早川書房という出版社。27、8歳のころだったかと思います。「SFマガジン」という月刊誌で連載することになって、それがイラストでのデビューですね。そのときはまだタツノコにいて、二足のわらじでした。

タツノコでは僕が25歳のときに、一番尊敬していた吉田竜夫社長が亡くなってしまいました。そのあとはだんだん人が辞めていってしまって、驚くことに最終的に僕が残りました。まだ20代でしたから、絵描きとしてはこのまま組織にいるのも考えものです。キャラクターアニメーションの仕事はさんざんやって来て、このままやっても繰り返しだなという思いもありました。それで「イラストをやる」と決めて、初めて組織から出て独立したんです。そのときはまだ、今後の生活に対する不安もありました。

これまでのアニメーションの仕事と、独立して出版社から依頼がある仕事に違いはありましたか?

全然違いますよ。キャラクターデザインというのは、絵柄を作るのが仕事なんですね。決まった世界観に合わせて、主人公や敵、ヒロイン、(主人公の)友達を作るものでした。一方イラストの仕事は、何もないところで絵を描かなくちゃいけない。最初は「自分の絵柄はなんだったんだろう」と戸惑いました。それで古今東西いろんな画家の絵を見て影響を受けて・・・・・・。そこで、自分の好きなものが自分の絵柄になったらいいのかなと思い至ったんですね。
また、どういう世界を自分が描くのか知ろうと考えて、SFやファンタジーの海外小説を読み漁りました。すると、イメージやイマジネーションが自分のなかにどんどん入ってくるんです。それを絵で描けばいいんじゃないかと考えました。自分にとっての、絵描きとしてのテーマみたいなものがそこからどんどん吸収されていったんです。
アニメーションの仕事では絵を描くとき、どちらかというと吸収するより出すことばかりでした。全然ストックがない状態だったんですよね。けれど今度は仕事として、いろんな神話や世界観を読んで、それを絵にする機会をいただけた。とても有り難かったです。それがイラスト初期のころですね。

独特な画風が完成したのも、そのころなのでしょうか?

画風が出来上がったのは表紙をはじめたころです。小説の表紙で「美少年」を描いたことがありました。これが鉛筆で描いた最初のラフの段階では、すごく男っぽかったんです。なのに、その絵を清書したら女性っぽくなったんですよね。 その女性っぽくなった絵に、「この顔いいな」「この雰囲気いいな」って感じたんです。未だに、そのとき「いいな」と思ったものが頭にあるんですよね。このときにたぶん、絵が決まったんだと思います。

一枚の絵が転機だったんですね。

30年以上続く、ゲーム『ファイナルファンタジー』の仕事
独特なモンスターや装飾はいかにして生まれるのか

amano

次に、ファイナルファンタジーとの出会いを教えてください。

SFやファンタジーの海外作品に絵をつけることが多かったので、ファイナルファンタジーを作る坂口博信さん※1が僕の仕事をご覧になって依頼がきたのだと思います。

※1 日本のゲームクリエイター、シナリオライター、映画監督。ゲーム制作会社ミストウォーカーCEO。『ファイナルファンタジーシリーズ』の産みの親。

これまでの仕事と違う苦労はありましたか?

イメージシーンなどのイラストも描くんですけれど、まずはキャラクターを作るんですね。アニメーションのキャラクターデザイナーに戻ったような感覚でした。そういう意味では、やり慣れた感じもしました。

ファイナルファンタジーには30年近く携わっていらっしゃいますが、時代とともに制作に変化はありましたか?

それが、まったくないんです。ファミコンではドット絵だったのが、今では3D。ゲームはどんどん進歩しているけど、僕自身は変わっていないです。

この「ファイナルファンタジー」という仕事にあたり、気をつけていることはありますか?

そんなにないですね。アニメーションの新作と同じで、「まだどこにもないものを提供する」ということなのだと思います。
例えば「ドラゴン」という依頼があったとして、ビジュアルは西洋のドラゴンから、東洋の龍もありますよね。なんとなくドラゴンっていうと、それらが思い浮かぶじゃないですか。その自分の記憶を頼りにキャラクターを作るようにしています。何か資料を見ると、それになっちゃいますから。

生み出せないと悩むことは、ないのでしょうか?

キャラクターデザインを長くやっていましたし、そんなにないですね。毎週無理やりにでも生み出さなきゃならない、過酷な経験をしているので。

では、キャラクターデザインを始めたころは、そんな悩みもあったのでしょうか?

これもそんなにないんです。逆に、思いつかないのが面白いというか。それが新鮮だったりする。思いつかないときは困るよりも「これはなんだろう? なぜ思いつかないんだろう?」って、そういう探究心が強かったです。これは未だにそうですね。

天野さんといえば、キャラクターデザインやイラストだけでなく、舞台美術や衣裳デザインなど多様な創作をされていますが、それぞれに違いを感じますか?

これまで、興味のあることを、いろいろやらせていただきました。やってみて、それぞれの世界について大体知ることができました。今はもう、新しくやりたいものはあんまりないですね。
たとえば舞台美術に関して言うと、舞台美術専門の人がいるわけですよ。舞台はそういう専門家たちの世界であって、絵の世界じゃないんですよね。

面白いのがね、舞台専門の人というのは美術にしても、舞台の中で作るそうなんですよ。でも僕が求められているものは、舞台の大枠となる世界観みたいなもの。それをたまたま舞台で表現するんだと演出家の方に言われたことがあるんです。
舞台というのは、舞台上にいろんな世界がありますが、実はまず世界があって、それをたまたま舞台で見るんだと。そういうようなことらしいんですよね。

それで舞台美術の仕事に納得がいった。じゃあ俺は、イメージを作ればいいんだと。僕が紙に描いたものを舞台に持って行くと舞台美術になり、ゲームに持って行ったらゲームになるっていう感じだと思うんですよね。あくまで、やっぱり絵描きですから。

40代、NYで個展を開く
踏み入れたファインアートの世界

ファインアートを描かれたり、個展を開いたりされていますが、この活動は始めるにあたりきっかけがあったのでしょうか?

1997年にNYではじめて展覧会を開いたんですね。僕は70年代にタイムボカンシリーズの『ヤッターマン』や『キャシャーン』などのキャラクターを作ったわけなんですが、そのころ影響を受けていたのがアメリカのポップアートだったんです。 それで90年代に入って、ポップカルチャーの殿堂であるNYに行きました。当時40代でしたが、NYにアトリエを作って、そこで作品を発表しようって展覧会を開いた。でもNYには、そのときすでに誰もいなかったんです。当時影響を受けたアーティスト達は皆死んじゃったみたいで・・・・・・。何もないことに、当時は愕然としましたね。

反響はいかがでしたか?

それはもちろん、いろいろいただきました。
1997年の展覧会では、NYに感じたモノトーンな印象を「ニューヨークナイト」という絵にしました。はじめて油絵の具でキャンバスに描いたんです。そういうふうに印象を絵で表現して発表したのが、僕にとって初めての「ファインアート」ですね。それを見たNYのギャラリーから「個展をやらないか?」と声が掛かって、個展を開いたのが2002年。 ファインアートの世界は、自分にとって今までとは違うステージでした。だから、新鮮で楽しい。アニメーションもイラストもある種やり尽くして繰り返しになっていたところもあったから……。それで、ファインアートの世界に入ったって感じですね。

海外のファンと、日本のファンに違いはありますか?

アメリカも、ヨーロッパも、南米も、アジアも、同じ。国ではなくて、年代によって一緒になっている気がします。僕のどの作品を見て育ったかによるのかもしれません。

芸術は、国境を越えるんですね。

仕事に求める「楽しみ」とは

では、さまざまな「絵」に携わっていらっしゃいますが、制作において一番大切にしていることを教えてください。

楽しくやれるかどうかでしょうか。楽をするということじゃなくて、やりがいがあるかどうか。繰り返しになってないか、とかね。目の前にある紙に、なにもないところから始まるわけですから。気持ちがないと始まらないと思うんです。

制作で一番大事にしているっていうより結果的に思うのは、イベントや展覧会など、いろんなことがあってもそれはお祭りみたいなもので、終わっちゃうんですよね。それで何が残るかっていうと、頑張って作った作品だけが残るんです。そのときに、「じゃあどうだったんだろう?」「本当にこれはよかったのかな?」って振り返ることが一番大事かなって思う。
それがこれからも続くんですけどね。頑張っている作品も、頑張ってない作品もあるんですけど、そうして残ったものが今後に繋がっていると思うんですよ。

自分の絵が人に影響を与えているなと思う瞬間はありますか?

あんまりないですね。

意外です。言われることは多いのかなと想像していました。

海外のイベントだと、そういう風に言ってくれる人も多いんですけど、なんだかこそばゆいですよね。皆さんがおっしゃるのは「テレビで見たり、画集を買ったり、そのときに影響を受けた」という話ですけど、それはたまたま、そのときの自分の人生を投影しているだけだと思うんですよ。

65歳、天野喜孝の夢とは

amano

今後やってみたいお仕事や、関わってみたいデザインはありますか?

壁画をやってみたいですね。壁がないと出来ないから機会が欲しい。

実は、自分の美術館を作りたいと思っていて……。そのための壁画や天井画のラフを描いているんです。予定があるわけではなく、今後に向けてやっているだけなんですけど。

だいたい僕、いつもそうなんですよ。自分で「こうしたいな」「描きたいな」っていうのがあって、それが後から仕事になっていくっていうことが多いんです。例えば『斬』や『N.Y.SALAD(やさいのようせい)』※2もそうなんですけど。

※2 NHK教育で放送されたアニメ作品。 第1シリーズは全26話放送された。

いま一番の夢が、美術館なんですね。

大きい作品を展示する機会とスペースが欲しいんですよね。こればかりは自分だけではどうしようも出来ないじゃないですか。もし依頼しようって人がいてもね、こちらに実力や評価がないと依頼もないわけです。そのために今はスキルを上げたいし仕事もやっているんですけど、結果に繋がればいいなと思っています。

ただね、僕も65を過ぎて、普通のサラリーマンだったら定年ですよ。今後は自分のために絵を描こうって。

結局絵を描くんですね。

7~8割は、仕事じゃない絵を描いています。『キャンディーガール』(http://candygirl108.com/)もそうだしね。

今だから思う、20代、30代のうちにしておくべきだったこと

最後に、クリエイターに向けてアドバイスをいただけたらと思います。例えば20代、30代のうちにやっておくべきだったと思うことは何かありませんか?

僕自身が20代だったころの気持ちを覚えているんですけど、必死でしたよね。先のことはわからなかったから、目の前のことをとにかくやっているだけでした。皆さんも、目の前のことを頑張ればいいんじゃないかなと思うんですよ。そうすることで、なにか違うものが見えてくるのかなと思うんです。
ただ、ボヤーッとした夢みたいなものは一人一人必ずあると思うんですよ。ただ、それは自分だけの世界の夢。だからもしクリエイターの人だったら、まずは目先の仕事を一生懸命やって評価されてね、生活できればいいなあと。

絵は仕事としても成立するんですが、絵の世界っていうのはそれだけじゃない、もっと楽しいものなんですよ。仕事って下手したらなくなっちゃいます。ゲームの仕事だって昔はなかったけど、今はある。仕事って時代とともに増えたり減ったりしていくので、それ以外になにか、自分の中のもっと先にある夢みたいなものを持っていたら、楽しいんじゃないでしょうか。
目先の仕事で追われて、でもボヤーッとした霞のような夢があって、いつもそっちに近づいているんだって。叶うのは10年先、20年先でもいい。直線じゃなくても紆余曲折してもよくて、全部それが経験になるから。

天野さんが、20代、30代のころに持っていた夢ってなんでしたか?

うーん、実はあんまりなかったかも。当時を振り返って「持っていれば良かった」と思うところでもある。ただなくてもね、色々なことをやっていれば、そういうボヤーッとしたものは必然的に見えてくるんですよ。

だから「やりたい」と思ったものはやらないと、一生ずーっと頭のどこかに残るんです。だったら、やっちゃったほうがいいですよね。10年、20年、30年経って興味がなくなっちゃうこともあるんでしょうけど、意外と引きずりますから。さっさとやってみて、違う方向に行ってもいいんじゃないかなとかね。何にしても、やらないと分からないですよね。

取材日:2018年9月14日 ライター:渡辺りえ

天野喜孝/画家、デザイナー、イラストレーター

1952年生まれ、静岡県出身。15歳でアニメーション制作会社である株式会社タツノコプロ(旧、株式会社竜の子プロダクション)に入社。アニメ『タイムボカンシリーズ』をはじめとするキャラクターデザインを手掛ける。独立後はゲーム『ファイナルファンタジー』のキャラクターデザインを担当。繊細かつ幻想的な絵柄は日本のみならず海外でも人気を博している。ほか、本の装丁や舞台美術、衣装デザイン等を幅広く手掛け活動は多岐に渡る。

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