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1000年以上続く壮大な歴史が感性を刺激する!奈良での出会いが未来を開く

奈良
シンガーソングライター 大垣 知哉 氏
Profile
1976 年、京都府出身。高校時代から作詞・作曲を手掛け、大学在学中にシンガーソングライターとしてスタート。京都から東京に進出してからは、映画『369のメトシエラ』やドラマ『リバウンド』への出演など、俳優としての才能も開花させた。その後、関西にUターン。寺社仏閣でのコンサート、タウン誌での連載記事執筆、ラジオ番組への出演など、奈良を中心に活動している。
シンガーソングライターとして、奈良の魅力を発信し続ける大垣知哉さん。東京では俳優としても活躍し、将来を期待されながらUターンを選んだ理由とは。デビューのきっかけや、東京でのエピソード、現在のお仕事についてお聞きしました。

人前に立つのがとても苦手だった

俳優をされるほどの容姿をお持ちで、幼少期から注目を集めていたのでは。

全くそんなことはありません。幼い頃から人前に立つのがとても苦手で、ピアノを習っていたのですが発表会なんてもってのほか。緊張して顔が真っ赤になり、頭が真っ白になってしまったことを覚えています。学校でも得意科目は算数で、“将来は宇宙飛行士になりたい”と思っていたほど。音楽業界への道を考えたことはありません。しかし、父がさだまさしや吉田拓郎、⻑渕剛などの曲が大好きでよくギターを弾いていたこと、母がホテルのアルバイトでコントラバスを弾いたこと、両親がよくコンサートに連れて行ってくれたことなど、音楽に縁がある環境だったのかもしれません。

現在の仕事につながるエピソードがあればお聞かせください。

曲を作り始めたのは高校2年生の時です。父のギターを持ち始めて、独学でコードを学びました。周りの友だちもギターを弾き始めていたので、“楽曲を作れたらかっこいい”くらいの軽い気持ちでした。しかし、注目されることの苦手意識は幼い頃以上に強くなっていて、大勢の前で演奏するなんて考えられませんでした。曲を作っては友人から意見をもらうやり取りに満足していました。そんな私が初めてステージに立ったのは、大学3年生の時。ゼミで一緒だった友人が学校祭運営委員をしていて、「楽曲を発表してみないか」と声をかけてくれたのです。演奏当日はスコンと記憶が抜けるほど緊張ししたが、友人から「良かったよ」と褒めてもらったのがとてもうれしく、大きな自信になりました。

人前で演奏したのはその1回限りで、すぐ就職活動に入りました。当時は就職氷河期ですから、100社に資料請求のはがきを送ったり、セミナーに足を運んだり。必死に活動して、ようやく2社の内定をいただきました。しかし同時期に、高校時代の 親友が病気で他界。あまりに突然なことで、大きなショックを受けました。それから、死について何度も考えるようになり、”やりたいことを やっておきたい”と音楽への道を考えるようになりました。すると、両親が「音楽をしたら良いと思っていた」と背中を押してくれ、内定先も事情をくみ取って快諾くださいました。友人も含めて誰一人反対する人はおらず、大学4年の秋、音楽の世界に入ろうと心を決めました。

音楽業界の道はどう切り拓いていきましたか。

コネクションなどは一切ないので、河原町通りでの路上ライブからスタートしました。しかし、それがとても恥ずかしくて、友人を連れて行ったり、コソコソと演奏したり。運よくすぐにファンがつき、毎回10~20人が集まるようになりました。さらに、活動がエンタテインメント業界に精通する方の目に留まり、Music Japan TVの局⻑を紹介くださったり、バックアップするプロジェクトを立ち上げてくださったり、トントン拍子に話が進みました。路上ライブを始めて半年後には、Music Japan TVやラジオ番組への出演、舞台音楽の担当など活動範囲が拡大。2001年にはOBP(大阪ビジネスパーク)円形ホールでのワンマンライブを自ら企画・運営し、500人の動員を達成しました。

東京に進出したきっかけを教えてください。

プロジェクトが大きくなるにつれ、広がりの限界を感じるようになりました。そして、東京のレコード会社にデモテープを送ってみたところ、ビーイングというレコード会社から「一度受けに来ないか」と連絡をいただいたのです。同じタイミングで、スペースクラフトという芸能事務所の社⻑とも出会い「うちでやってみないか」とお誘いいただきました。この2社はとても関係が良かったため、事務所はスペースクラフト、レコード会社はビーイングという共同プロジェクトの形でデビューが決定。大学を卒業して7年目、29歳の時です。

ライバルが多い東京に進出し、俳優としてもデビュー

応募者1,000人の中から主役に抜てきされた映画『369日のメトシエラ』(製作・配給 株式会社 JungleWalk)

東京での活動についてお聞かせください。

東京では事務所の勧めから、俳優にも挑戦しました。最初に受けたオーディションは、映画『369日のメトシ エラ』(製作・配給 株式会社 JungleWalk)。演技はまったくの素人でしたが、応募者1,000人の中から主役に抜てきしていただき、この出会いが人生の転機になりました。クランクアップから1年間は音沙汰がなく、映画自体が「消えてしまうのでは」と思うほど。しかし、上映がスタートするとイベント情報誌『ぴあ』で「映画満足度ランキング1位」に選ばれ、一気に全国へと展開していきました。上映キャンペーンで全国各地を飛び回るようになり、ドラマ『リバウンド』(日本テレビ) への出演やCMのお仕事など、俳優としてのお仕事が増えていきました。

シンガーソングライターとしての活動はいかがでしたか。

レコード会社の担当者と相談しながら曲作りを進める毎日でした。締め切り前には夜通し曲を作りましたし、レコード会社 の担当者が家に泊まり込んで完成を待ってくれたことも。事務所にはボイストレーニングに通わせていただきましたし、映画の主題歌に抜擢されるなどワンランク上の仕事も用意いただき、本当に恵まれた環境だったと感謝しています。しかし、自分自身としては焦りを感じていました。東京にはライバルも、歌が上手な方もが星の数ほどいました。500 人のファンに応援いただいた私も、東京では無名の存在。ライブ会場に集まったファンは50人ほどでした。シンガーソングライ ターとしても俳優としても、無力さを痛感する日々で、東京での活動に限界を感じるようになりました。

事務所を移転されたきっかけとは?

関西に戻ろうと決めたのが一番のきっかけです。東京の仕事は、365日連絡を待つスタイル。コネクションがあり、自ら動いて仕事を生み出せる関西のほうが自分らしく活動できるのではないか、と思いました。”もう最前線ではやらない。地元に帰って地域に根付いた活動をしよう”と決めて、事務所を後にしました。そんな時に「東京の案件が残っているなら、うちでやらないか」声をかけてくださったのが、映画『369日のメトシエラ』の配給会社 JungleWalk(ジャングルウォーク)です。社長や監督にはとてもお世話になっていましたので、すぐに契約させていただきました。

奈良での大成功が、スタートに弾みをつけた

大阪を代表するジャズメンバー10数名をバックメンバーに迎え、有名なフレーズ以外はすべて日本語で歌う“大垣知哉JAZZ”。

Uターン後はどんな仕事をされていましたか?

関西に戻ったものの、映画のキャンペーンで全国を飛び回る毎日でした。一番印象に残っているのは奈良でのキャンペーン。「奈良 での興行は自分に任せて欲しい」と社⻑にお願いして、映画PRの営業活動から映画館との打ち合わせまで、すべて1人で切り盛りさせていただきました。昼夜ともなく駆け回った甲斐あって、シネマサンシャイン大和郡山での上映は800席が満席に。上映が2週目に延⻑されるほど大成功し、別会場でワンマンライブも行いチケットも完売となりました。500席を埋めたかつてのライブに比べると小規模ですが、応援してくれる方々の温かさがありがたく、近い距離でつながっていく活動に手応えを感じました。

2015年には、けいはんなホールでワンマンライブをされていますね。

2015年には『Meets JAZZ』と題して、生まれて初めてジャズに挑戦しました。大阪を代表するジャズメンバー10数名を バックメンバーに迎え、有名なフレーズ以外はすべて日本語で歌う”大垣知哉JAZZ”を打ち出しました。実はその1年前、私は関⻄でマネジャーをつけました。その人は、奈良のけいはんな学研都市に特化してマネジメントやイベントプロデュースなどを請け負うマルチな女性。ジャズに挑戦したのも、彼女のアイデアでした。「けいはんな学研都市は文化度がとても高 く、ジャズへの関心が高い」という彼女の読み通り、初年度は850人を動員。”興行は1年限り”というけいはんなホールも、 あまりの反響に3年連続『Meets JAZZ』の開催を快諾いただきました。2年目以降も800人を動員し続けて大成功を収めまし た。この成功をきっかけに、奈良のタウン誌『ぱーぷる』での連載がスタート。1年後には記事のテーマを音楽から大好きな寺社仏閣にシフトし、これがフリーペーパー『ENTAME NEWS』での連載担当へとつながりました。

「好き」を追究。その積み重ねが仕事につながった

寺社仏閣はいつ頃から好きだったのですか?

中学生の時に仏像に興味を持ったのがきっかけです。あのフォルムがたまらなく大好きで、フィギュアを100体集めるほどはまりました。そんな私にとって奈良の寺社仏閣や歴史は大好物。知るたびに好奇心を刺激されて、どんどん情報収集にのめり込んで いきました。連載を担当する『ENTAME NEWS』は、奈良県のエンタテイメント情報を発信するフリーペーパーです。現在 6万部が発行されており、奈良県市内の朝日新聞に月1回折り込みされています。現在、私の担当は「魔法の言葉」という奈 良で活躍される女性への取材記事です。これまでには寺社仏閣を守る方々や奈良出身のアーティストに取材させていただききました。

ならどっとFM『奈良、奥の奥』にも出演されていますね。

元春日大社権宮司の岡本彰夫先生、映像作家の保山耕一さんと、ラジオ番組で共演させていただいています。岡本先生は奈良の「生き字引」といわれるほど博学な方で、保山耕一さんは『情熱大陸』などを手掛けたベテランカメラマン。私はこれまで奈良の情報を発信してきましたが、お二人と一緒にいると「まだまだ知識や考えが浅い」と痛感します。お二人とご一緒させていただく経験を通じて、人としてもより成⻑したいと考えています。

シンガーソングライターとしての活動はいかがですか。

社寺仏閣でのコンサートを行っています。その社寺にまつわるお話を現代風に書き直して朗読し、その間に音楽を挟むスタ イルです。また、数年前から奈良の風景を撮影した映像作品『奈良夢物語』を自分で制作してWEBで公開するようになりま した。奈良は日本一世界文化遺産 が多いですし、火祭りが1,000年以上受け継がれているのも奈良だけです。もちろん撮影 費などはありませんし、すべてが自腹。しかし、見返りを求めず興味を追究していった結果、奈良の情報を求める方々からイベント司会やライティングなどのお仕事をいただくようになりました。

仲間と力を合わせて、世界中に奈良の魅力を発信したい。

仕事をするうえで大切にされていることを教えてください。

1つは、「流れにあらがうことなく、凛として立つ」ということです。これはマネジャーからの受け売りですが。「流れはきちん と来るから自分が変 えようとする必要はない。来たものに対して自然に受け答えしていけばいい」といつも言ってくれるので、戒めとして大切にしています。関⻄に帰ってきてからひたすら営業をして、お酒の付き合いなども多かったのですが、この言葉を聞いてすべて止めました。止めてからの方が仕事は増えましたね。もう一つは、「客観的な視点」です。私は奈良に根付いて活動していますが、住まいは京都に置いています。それは、外からの視点を失わないためです。映画『369日のメトシエラ』の監督にこんな言葉をいただきました。「世の中を変える人は3つの“もの”がつく。それは「若者」、「そと者」、「ばか者」 だ」。奈良をより魅力的に発信していくために、「そと者」であり、「ばか者」であるスタンスを意識しています。

今後の⽬標について教えてください。

音楽としては、より奈良に特化した構成、メンバー、環境でコンサートを行っていきたいです。コンサートをきっかけでその土地の魅了を感じてもらえるような、土地に根付いた音楽を発信したいと思っています。そして、より発信力を持ちたいと思っています。Web媒体の影響力が強まっていくこれからの時代は、自らコンテンツを作ることができる人が勝ち残っていくと思います。そのために、タレント同士で情報発信できるチームを組んだり、同じ目的を持っている人と連携しながら、情報発信力を蓄えて行きたいと思っています。

U ターン、I ターンを考えている方にメッセージをお願いいたします。

移住後の最大の課題は仕事です。自走できるようにどうやって仕事を生み出すか。その見通しをつけてから移住を考える と、補助金や人の助けに頼らない⻑期的な自走が可能になるかと思います。なので、今いる現場で、今やっている仕事で、力をつけることが大切です。それさえクリアできれば、東京にはないすばらしい環境と豊かな生活が待っていることでしょう。

取材日:2018年7月30日 ライター:鹿野牧子

大垣知哉(おおがきともや) / シンガーソングライター

1976 年、京都府出身。22歳の時にシンガーソングライターとして音楽業界に飛び込み、29 歳で東京へと進出。女性ファンを魅了する容姿から俳優業をすすめられ、初めて受けたオーディションで応募者1,000人から映画『369日のメトシエラ』の主役に抜てきされた。現在は奈良を拠点に、寺社仏閣でのコンサート、タウン誌での連載記事執筆、ラジオ番組出演など、奈良の歴史やアートに精通するアーティストとして活躍している。

http://tomoya.info/

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