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LOVE LOCALラブ♡ローカル

世界的ヒットを誇る『ガングレイヴ』の企画を担当。東西のゲーム業界を駆け抜けて、活気のある大阪へ!

大阪
ゲームプランナー 榛 高志 氏
Profile
18歳でゲーム業界に入ってから、『トゥルー・ラブストーリー』『GUNGRAVE(ガングレイヴ)』など数々の名作を手掛けてきた榛氏。浮き沈みの激しいゲ゙ーム業界で、自宅用のコンシューマーゲームから、ゲームセンターのアミューズメントゲーム、携帯電話のソーシャルゲームまでさまざまなジャンルを手掛けてキャリアを培ってきた。東京、三重を経て、2017年4月より新大阪のゲーム制作会社でさらにスキルを磨いている。
地元で活躍するクリエイターを紹介する「LOVE LOCAL」第15回は、大阪でゲームプランナーとして活躍する榛高志(はたたかし)さんにインタビューしました。18 歳でゲーム業界に飛び込んでから、東京、三重、大阪へとフィールドを広げてきた榛さん。ゲーム業界を志したきっかけや、大阪でのエピソード、東京と大阪の違いをお聞きしました。

ゲーム好きは小学生時代のファミコンから

生まれ育った東京でのストーリーを教えてください。

東京都杉並区で生まれ、東大和市で育ちました。小さい頃からゲームが好きで、全機種のゲーム機を持っていたほど。ファミコンが発売された当時は小学校の中学年だったでしょうか。『アイスクライマー』や『クルクルランド』、『エキサイトバイク』など、初めて買ってもらった4本のソフトに夢中だったことを覚えています。雑誌『ファミ通』も創刊時から講読しており、押入れはまんぱいに。しかし、今ほどのめり込んでいたわけではありません。ゲームセンターのように自宅を開放しながらも、自分は外でサッカーやメンコなどをして暗くなるまで遊んでいました。

本格的にゲーム業界に進みたいと思うようになったのはいつですか。

中学生になった頃です。パソコンを買ってもらってから、自分でゲームを作りたいと思うようになりました。自宅にはゲーム用のパソコンが3台あり、改造コードを紹介する専門誌を見ながらプログラムを組んでみたり、基盤改造をしてみたり。夏休みには、ROMを輸出する大手メーカーの工場でアルバイトも経験しました。しかし、学校でゲームの話をすることはありませんでした。私と同じくらい知識を持つ人が周囲にいなかったのです。中学校ではテニス部に所属して、遅い時間まで練習に励んでいました。高校に進学してからは部活がなかったので、放課後はゲームをしたり、ゲームソフト販売店でアルバイトをしたりとゲーム三昧の生活に。「ゲームを作りたい」という思いがどんどん強くなり、卒業後は迷わずゲームが学べる『エニックスゲームスクール(現在はデジタルエンタテインメントアカデミーに改称)』に進学しました。

専門学校ではどんな毎日でしたか。

当時はまだ1コースしかなく、企画から音楽、プログラムまで総合的に学びました。放課後には友だちのアパートに集まってゲームの話で盛り上がり、寝ても覚めてもゲームの毎日。楽しくて、楽しくて、ほとんど家には帰っていなかったですね。中学や高校では詳しい話ができなかったので、思いっきりゲームの話ができる毎日がうれしかったんだと思います。そしてこの頃、妻と出会いました。彼女は、エニックスゲームスクールの受付をしていたのです。社会人としてテキパキと働く彼女は、私にとって憧れの存在でしたね。1年制のため半年後には就職を目的にしたアルバイトを始めました。私が選んだのは『ダービースタリオン』を手掛ける大手パブリッシャー。デバックから入って、リーダーになり、プロデューサーから声をかけられてそのまま就職しました。

就職した会社では、どんなお仕事を担当されていましたか。

入社して1年も経たないうちに、企画や制作進行管理を担当させていただくようになりました。最初に手掛けたのは『トゥルー・ラブストーリー』という、女の子向けの恋愛シュミレーションゲームです。社内プレゼンテーションの場には関係者150人が集まり、さまざまな意見が飛んできましたが、この会社の魅力はプロデューサー制であること。プロデューサーが決めたプロジェクトは決してボツにならないスタイルでしたので、企画したゲームを最後まで作ることができました。『トゥルー・ラブストーリー』は約10万本しか売れませんでしたが、今では4作目を作っており、ファンに愛されるロングセラー商品になったことがとてもうれしいです。半年間、会社に泊まり込むほど忙しい毎日でしたが、ここではCM撮影やゲームに使用する素材の撮影で海外出張したことも。念願のゲーム業界で働ける毎日はとても充実していました。

プランナーとして認められ、25歳でビッグタイトルを担当

そこから6年で退社された理由を伺ってもよろしいでしょうか?

残念ながらゲーム事業の撤退が決まり、辞めざるを得ない状況になりました。この時、私は25歳。新婚かつ子どもが生まれたばかりで、「どうしよう」と途方に暮れました。とにかくできることから始めようと仕事を探したり、車の免許を取りに行ったり……。そんな時に仕事のオファーをいただいたのです。『サクラ大戦』、『ガングレイヴ』、マイクロソフトの『HALO』、今振り返るとビックタイトルに成長した作品ばかり。その中から1本選ぶことになりました。どれも魅力的でしたが、私の心を惹きつけたのは通称”人が殺せる企画書”。弾痕のある鉄板を裏表紙に使用した、世界に2つしかない企画書を見て「ぜひこれをやらせてください!」と心が決まりました。漫画家・内藤泰弘先生が生み出した世界観やゲーム性に惚れ込み、『ガングレイヴ』をフリーランスとして受けることにしたのです。

海外でもファンの多い名作ですね。どんな毎日でしたか。

ライフスタイルが大きく変わりました。昼間は子どもと遊んで、夕方5時からは池袋のガングレイヴ専用スタジオに出社。約30人の制作スタッフと一緒に朝まで作業をしました。そこに集まっていたスタッフは、ほとんどがフリーランス。なかには『リッジレーサー』を手掛けた有名なプログラマーさんもいらっしゃって、刺激の多い毎日でした。私自身、企画に加えてプログラム(スクリプト)の作業も担当させていただき、夢中になって開発していました。やっぱり作るのが好きなんですよ。2作目の『ガングレイヴO.D.』制作にも携わらせていただき、制作人生で一番印象深い作品になりました。

その後、東京で就職されてからは?

東京のゲーム会社に入社しましたが、半年後には大手ゲーム会社からお声がかかって転職しました。入社後はゲームセンター用のメダルゲームを担当し、ワンちゃんの踊りと音に合わせてタッチパネルで遊ぶ小さい女の子向けのゲームを開発していました。6年目を迎える頃に、東京チームと大阪チームを三重で統合する話が浮上。東京チームはほとんど退職しましたが、私は家族を連れて三重に転勤することにしました。

慣れない土地と関西弁が人間力を上げた

初めての西日本ですね。三重ではどんな仕事をされていましたか?

ここでもゲームセンター向けのアミューズメントゲームを作っていましたし、携帯電話で遊ぶソーシャルゲームも作りました。企画提案して上司の承認をもらったら、何でも作らせてくれたんです。アミューズメントゲームとソーシャルゲームを連動させて遊ぶゲームもこの時に企画しました。
一方、関西弁のキツさに戸惑いもありました。以前からテレビ会議や出張で親しんでいたつもりでしたが、暮らすとなると言葉の違いが気になってしまって。最初はなかなか慣れませんでしたが、家族がいてくれたから乗り越えられたのだと思います。息子が三重なまりの関西弁を話すようになった3年後、事務所が移ることになって大阪に来ました。

そこから1年で退社されていますね。何があったのでしょうか?

会社から秋田に転勤の打診があったのです。家族会議をしたところ「秋田は遠い」という話になり、このタイミングで辞めることにしました。大阪と東京で仕事を探し、最初に内定をいただいた東京の会社に単身赴任することに。そこではソーシャルゲームを担当させていただきました。しかし、入社時は「お前なら何でもできる」「売上は気にしなくていい」とおっしゃってくださっていた社長が、売上が落ちてきた途端「お前はもう会議に出なくていい」とおっしゃるようになって。ふと、以前に内定をもらっていた大阪の会社を思い出し、家族が大阪に残っていたこともあり、思い切ってその会社にアプローチすることにしました。

元気のある大阪でフリーランス時代の熱意が再燃した

それが現在、お勤めの会社ですね。

はい。今は新大阪のディベロッパーで家庭用のコンシューマーゲームを担当しています。大阪は小規模で活力のあるディベロッパーが多いんですよね。実際に入社してみて、夢中になって仕事をしていたフリーランス時代に似た面白さを感じています。そして、若手を育成できるのも面白さの一つです。これまで培ってきた経験をお伝えして仕事を進めてもらうのが楽しくて。自分で作業をした方が早いこともありますが、反面教師で携わっています。17歳の息子がいるので、20代の若手社員と話すのは息子と話しているも同然。アニメ好きやゲーム好きばかりが集まっていますので、年齢は離れていても会話が弾みます。

コンシューマー、ソーシャル、アミューズメントではどの分野が好きですか?

全部好きです。コンシューマーゲームならゲーム代以上の価値を与えるパッケージに仕上げなければいけませんし、アミューズメントゲームなら100円を入れてもらう動機づくりや、200円につながる面白さや、やめるにやめられない中毒性が必要。ソーシャルゲームは無料で楽しめて、課金したらもっと楽しめるストーリー性が大切です。すべてゲーム性が違うので、どれを作っても面白いですね。ただし、短期間で運営を回転していくソーシャル系は若い方が向いているのではないか、と実際にやってみて思いました。

では、パブリッシャーとディベロッパーはどちらが好きですか?

ディベロッパーですね。やっぱり作るのが好きなんですよ。実は料理も好きで、家ではよく作っています。ゲームも料理も自分が作ったものを喜んでもらえるのがうれしくて。「やったー!」という達成感が次への原動力につながっています。そして、ディベロッパーは短期間に何本もの作品に携わるので、職務経歴書を書く時に「俺、こんなにやっていたんだ」と思えるのも魅力の一つです(笑)

フレンドリーな環境でもっと楽しくゲームづくりを

大阪での暮らしはいかがでしょう。

食べものがおいしいですね。そして”学費が無料”という点も大きなメリットでした。この制度があったからこそ家族が大阪に残ったという理由もあります。高校生になった息子は和太鼓部の活動にハマっていて、学外の団体でも活動するほど。のびのびと育ち、やりたいことをどんどん突き詰めているようです。
私の生活では、通勤時間が短くなりました。東京では1時間以上かけて会社に通っていましたし、実家暮らしの時は2時間半も。だから泊まり込むしかなかったのです。今なら帰宅が深夜になっても、ホテルを探すより自宅に帰る方が早いですから。
そして、“できるだけ残業をしないように”という会社の方針もあり、定時退社の日が増えました。明るいうちに帰るなんて初めは申し訳ない気持ちでしたが、周りの皆さんも退社されるので帰りやすいのです。家ではマッサージチェアを買ってのんびりしたり、息子と一緒にゲームをしたり。家族と一緒に過ごす時間が増えました。

今後の目標について教えてください。

VRなど次世代を感じられる企画に携わりたいです。前社で少しだけVRに関わって辞めたので、ぜひもう一度チャレンジしたいです。作るとしたら『ガングレイヴ』のようなアクションゲーム。激しい動きがあるとVRは酔ってしまうので難しいのですが、まずは自分が楽しめる作品を作りたいです。

U ターン、I ターンを考えている人にメッセージをお願いいたします。

大阪はとてもフレンドリーな環境です。ビジネスと割り切って距離を持つのではなく、気軽に「今日、飲みに行きましょう」と誘い合える雰囲気でとても働きやすいです。会社にはフットサルのチームもあり、休日に集まってサッカーを楽しむ方々も。仲間と一緒にワイワイいいながらモノづくりをしたい方におすすめしたいですね。

取材日:2018年2月15日 ライター:鹿野牧子

榛高志(はたたかし)・ゲームクリエイター

1974年東京都生まれ。株式会社サファリゲームズ開発統括部にてプランナーを担当。18歳からゲーム業界で働き、会社の事業撤退によって25 歳で独立。これまでの仕事ぶりが評価されて『ガングレイヴ』のオファーを受け、世界的な人気を誇るゲームを作り上げた。現在は大阪でプランナーとして活躍するほか、後続育成にも携わっている。

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