グラフィック2020.01.29

「今」を撮る――。写真家・瀬尾浩司が見つめる写真とフォトグラファーの世界

Vol.171
フォトグラファー
Hiroshi Seo
瀬尾 浩司
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『HUGE』magazine CONVERSE

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『SWITCH ISSUE#1』 TAKEO KIKUCHI

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TAKEO KIKUCHI

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TAKEO KIKUCHI PHOTO EXHIBITION PHOTO BY. HIROSHI SEO

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Cheyne Horan

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OIEMOTO Photo by. HIROSHI SEO✖️DESIGNART TOKYO 2019

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宝生流第二十世宗家 宝生和英

「両方やりたいんですよ」写真家の瀬尾浩司さんは随所でそう語った。CMフォトとアート作品による個展。アナログな銀塩とデジタル。一見、対極の存在ですが、瀬尾さんはどちらにも面白さを感じているようです。フィルムからデジタル、そしてスマホへと、写真をとりまく環境が急速に変わるなか、瀬尾さんは日本独自の様々なジャンルの「家元」を題材としたプロジェクト「OIEMOTO」に着手。日本古来から続く「道を守り伝える者」としての姿を捉えたこのプロジェクトは、2019年にはロンドンをはじめ、海外でも展示会が開催され、高い評価を受けています。四半世紀以上もの時間を写真に費やしてなお、挑戦や好奇心を忘れない瀬尾さんに写真について、世界観、そしてこれからについて伺いました。

話しかけられなかった未来の師に、偶然、バスで乗り合わせた。


写真の道へ入った理由やきっかけはなんでしょうか。

もともと絵を描くのは好きで、大学は京都精華大学という美大に通っていました。バブルの初めくらいの時代で、ニュー・ペインティング※1が流行していて、僕もデザインを学びながら、リキテックスなどで絵を制作していました。3年生になった頃、周囲が就職へと動き出し、僕も進路について考えてはいました。いろんなアルバイトをしている中で写真の仕事をする機会があり「写真なら広告などの仕事の写真と並行して、自分の作品も作れるんじゃないか」と、今思えば少し甘い考えで、写真家への道を選びました。どうやってこの道に進もうかと考えていた時、広告の情報をまとめているADC年鑑(美術出版社)に当時、ファッションなどの写真を中心に活躍されていた、久留幸子さん※2の作品が掲載されていました。彼女に会うために上京して「荷物持ちでもなんでもします」と押しかけて志願し、大学に通いながら久留さんのところで働き始めました。

※1 新表現主義。1970年代後半から1980年代中ごろまで美術市場を支配した現代美術の様式である。主な画家は、ドイツのアンゼルム・キーファー、アメリカのジャン・ミッシェル・バスキア、イタリアのフランチェスコ・クレメンテなど。

※2 女流写真家で当時広告で活躍されていた。植田正治さんに出会う以前、2〜3年ほど師事していた瀬尾さんの最初の師匠。

実際に写真の世界で働いてどうでしたか。

まだ大学生でしたが久留さんの所で、しばらく働くうちに、自分には何が足りないのか考えるようになりました。そしてライティング技術をきちんと覚えたいと、大学卒業と同時に六本木スタジオに入りました。久留さんには「1年修行して戻って来ます」と言って。スタジオで失敗したり褒められたりしながら、いろんなことを吸収しました。その後、久留さんのところを2年くらいで退職し、フリーになりました。

師事された写真家、植田正治さんとの出会いについて教えてください。

独立して3カ月くらいは、仕事がないので、酒屋で配達のアルバイトをしながら、休みの日に営業するための作品を撮っていました。そんな生活をしている時、植田正治さん※3のご子息でありアートディレクターをされていた植田充さんの事務所に就職した大学時代の友人から、植田正治さんの展覧会の、オープニングパーティーに来ないかと誘われたんです。ジーンズとTシャツといった格好で行ったので、同級生の手前もあり、場内をあまりうろうろせず、写真を見ただけでしたが、帰り道のバスで、たまたま植田正治さんと乗り合わせたんです。さっきまで人に囲まれて、僕なんか話しかけられる空気じゃなかった。その植田正治さんが目の前にいる。声をかけるしかないですよ。
思い切って「瀬尾と申します」と挨拶して、自己紹介をしました。緊張していたので、何を話したかはあまり覚えていません。しかしそれがきっかけで、鳥取の植田正治写真美術館オープン準備のため、植田正治さんと一緒に東京に植田正治事務所を立ち上げることになりました。開館2年前の出来事です。

※3 日本人の写真家。生地である鳥取県境港市を離れず、山陰の空・地平線・そして砂丘を背景として、被写体をまるでオブジェのように配置した前衛的な演出写真は、写真誕生の地フランスでも日本語表記そのままにUeda-cho(植田調)と紹介されています。

師の姿から教えられたのは20代の時にはわからない境地


「WEDDING」
亡き師匠:植田正治氏へのオマージュ。鳥取砂丘で撮影した友人の結婚写真

当時の瀬尾さんから見て、植田正治さんの魅力は?

出会った時、もう先生は80歳を越えられていました。でも好奇心が強くて、とにかく写真が好きだった。入院する時にもカメラを持っていって、点滴の写真を撮ったりしてる。写真にかけるその思いは、まだ20代の僕には分かりませんでしたが、今になって先生の探究心を、僕も歳を重ねて分かり始めています。また、当時はフィルムの時代でした。仕事で撮影する時でも通常、何枚も撮るじゃないですか。でも先生は集中して1枚撮ったら、それで終わりです。周りが「せっかくなのでもうちょっと撮ってください」と言うと、機嫌がいい時は「そうか?」ともう何枚か撮影してくださいましたが、インデックスを見ると、結局、最初に撮った写真が一番いいんです。

1枚目で撮りたいものがはっきりしていたんですね。

集中して撮影することが大事で、ただシャッターを押すだけじゃ駄目だと、先生から学びました。だから僕は、撮影は早いです。撮りたいところから撮っていく。そこは迷いません。アシスタントをしていたときには分からなかったんですけどね。ずっと目の前で先生の姿を見てきて、自然と自分にも身についていました。

瀬尾さんも1枚を集中して撮影されるんですか。

仕事での撮影は1枚ということはないです。ヘアメイクやスタイリスト、編集の人などと作っていくものなので、僕がいいと思っただけでは成り立ちません。自分の作品の撮影は1枚ということも多いです。「今だ」とシャッターを押すタイミングは、うまく言葉にできないのですが、オートフォーカスのカメラが、ピッとピントが合った時に近い感覚です。

アナログとデジタルについてのお考えをお聞かせいただけますか。

フィルムにはフィルムの良さがあります。でも現在メーカーがフィルムを作るのはリスクがあります。みんなが買ってくれないと衰退してしまう。とはいえ、今はデジタルの時代というのも分かります。デジタルとアナログはイタリアンと中華くらい違います。どちらにも良さがあるので、両方撮っていきたいですね。フィルムは暗室作業一つとっても面白いんです。仕事として受け入れられる場が残ってほしいです。

世界を旅して、日本に戻って来た時に見えた光景


福山雅治 PORTRAIT

瀬尾さんにとって写真とはどのようなものでしょうか。

ファッションや雑誌、福山雅治さんをはじめとするアーティストのCDジャケット等、いろんな仕事をさせていただきました。
アーティストの撮影は、ステージ上では表現されたものをカメラに収める一方通行ですが、楽屋では独特の距離感や空気感があります。写真を撮ることは受け止めることだと思います。僕にとって写真は、ライフワークであり、コミュニケーション。仕事のCMフォトのようなものとアート作品は違いますが、アートに関しては目的意識が個人的である。仕事としてやっていることは販売目的やイメージ戦略など、多くの方とつくりあげる目的意識がある。目的を人と共有するものと自分の中で見つけるもの、両方やるのが面白いです。。

ファッションの写真はどのように撮影されるのでしょうか。

植田先生のアシスタントをしていた頃から、菊池武夫さんのブランドの広告写真を撮影させていただきました。「自由に撮れ」と言ってくださり、今ならいろんな提案ができますが、当時は分かりませんでした。分からないなりに自由に撮影をしてみて、アートディレクターが選んだ写真を見て「こういった写真が選ばれるのか」と沢山の学びがありました。 例えば、この写真はフルオーダーのポスターです。この写真も僕が面白いと思ったものを撮影しています。「自由に」撮らせてもらった結果、採用されました。広告写真では、写真がきっかけになって作品になることもあれば、「こう撮って欲しい」というリクエストから始まる企画もあります。どちらにせよ、プロとしてきちんと撮影するために、自分自身が深くそのテーマを知ることが大事だと感じています。今でもよく「自由に」と言われます。そんな時は、自分がドキドキしたり面白いと思えることを大切にして、撮影しています。自分が楽しいと思っていないと、見ている人にもそうは伝わらない。だから自分が楽しめる仕事ができればいいですね。

40ct&525

世界を旅して撮影された写真もありますが、なぜ旅に出られたのでしょうか。

初めてイタリアに行って1カ月撮影した時、「もっと格好よく撮れるかもしれない」と考えたりもしたんですが、旅は「今」を撮らなければならないんです。「今」を撮る写真が一番強い。旅も写真も一期一会です。「今」をパシッと写真に収められる写真家になりたいと、その頃から思うようになりました。2度目の独立をしてまもなく、航空会社から連絡が来ました。マイレージが来月失効するというお知らせで、仕事でよく海外に同行していたため「ビジネスクラスで五大陸を巡れるくらい溜まってる」と言われました。せっかくなので行ってみようと、仕事を休んで、旅に出ました。 受け入れる力、吸収する力、気付いていく力は旅で培われました。慣れてくると、日本では見過ごしてしまうことでも、海外では「あ、いいな」と気付くこともあります。すると日本にいても、日本の良さに気付くようになりました。

世界を回られたのは独立されてすぐとのことですが、独立した経緯を教えてください。

植田正治写真美術館が1995年に開館し、準備室の頃からいた僕も、開館から2年くらい経ち、独立を考えるようになりました。先生や息子さんに相談すると、先生もご高齢なので新しい人と一から関係を作るのは厳しいということ。そこで「自分の仕事は受けていいから、植田正治の仕事が入れば手伝って欲しい」と提案され、その体制で活動しました。2000年に暖簾は分けましたが、状況はそれまでと一緒ですね。 先生は2000年の夏に倒れられ、急逝されました。僕は翌日から一緒に撮影で奈良に行くはずでした。切符もすべて手配が終わっていて、体調を整えたいと散歩をしていました。最後まで写真でした。その域まで情熱を持ち続ける姿には憧れます。僕もこんな風に死にたいと。かっこいい先輩たちの存在は、まだ目指せるものがある楽しみがあるということなので幸せだと思います。

日本の伝統を背負う「家元」に魅せられ、シャッターを切った。


生間流式包丁 第三十代家元生間正保

2017年に着手された「OIEMOTO」プロジェクトについて伺えますか。

広告の仕事から切り離した、自分で始めた企画です。世界を回っていると、日本の美について考えるようになります。今見ているファッションや現代の日本の美とは違う、日本には脈々と受け継がれるものがある。ちょうどその頃、武者小路千家を撮影させていただく機会がありました。
伝統的なものを撮影しているのに、昔の古いものを撮っている感じはしません。だからといって未来でもない。この感じはなんなのだろうと。美しく、かっこいい。安らぎや闇、そして光。謎の記号でベールに包まれているような世界に惹きつけられました。 日本独自の家元は、室町時代から続く「道」を伝える存在です。それぞれの「道」を背負ってきた家元に会ってみたいと思いました。

茶道や華道、香道など、さまざまな家元の撮影をされていますね。

どの家元にも、道を伝えていく覚悟があります。能では、面を見つめ、自分の中に面の役を下ろす時間があります。神秘的で聖域のような時間です。 香道もすばらしい文化です。第二十一世家元継承者の蜂谷宗苾さんは、ヨーロッパやアジアにも香道を広める活動をされています。香道にはゲームのような組み合わせを当てる遊びがあり、そういうものにやすらぎを求めるのもいいと感じました。
また、所作がどの家元も美しい。例えば、平安時代から宮中に仕えた式包丁。昔、天皇に食事を提供する時に、食材に手を触れることが禁忌でした。そのため、手の代わりとなる道具を使い、食材に触れることなく調理をする、包丁さばきが美しい技法です。そういった美しさは残していきたい。
家元たちが極めてきた「道」はただ美しいというだけでなく、そこに何かを感じるんです。その世界観も写真に収める。それを繰り返しているのが「OIEMOTO」です。

「OIEMOTO」は海外でも展示会をされていますね。

2019年初めにイギリスで写真展を開催しました。例えば日本人でも、能の所作の意味や、清め、能面をつけるための場所をご存知の方は少ないでしょう。一般の人は見ることはないけれど、美しくもあり、その深い歴史を背負う家元の覚悟もあり、脈々と室町の時代から伝えられてきた重みがあります。海外の人にもわかるように、家元にコメントとともに、解説と一緒に展示をしました。写真展はミュージシャンのライブっぽい。ファッションや広告は受け手側がどう思ってるか知る機会があまりありませんでしたので、展覧会で反響が聞けるのは面白いです。

ミックスされた多様な表現が可能な写真の未来


OIEMOTO EXHIBITION in LONDON PEACOCK THEATER
2019年3月19日~3月31日まで

OIEMOTO Photo by. HIROSHI SEO✖️DESIGNART TOKYO 2019
ロンドンでの展示を終えて、DESIGNART TOKYO 2019 へ参加。
東京北参道のショールームにてOIEMOTO展(ロンドンの抜粋版)を行いました。
宝生流の家元に会場で舞っていただき、その様子をライブシューティングするイベントを行いました。

今後も「OIEMOTO」プロジェクトを続けられるんでしょうか。

それはちょっとわからないですね。まだ撮ってみたい家元がいるので今後も撮るつもりですが、今回やったことでプロジェクトとして1つの形ができたので、僕の手による展示ではなくてもかまわないと思っています。開催されるならもちろん僕も行きますが。

今後どのような活動をされたいですか。

振り返ると大学時代、写真の道を選んだ時に戻ります。広告やファッションの写真を撮りながら「今」を撮って写真展をすること、同時にやることに意味があるんだと思います。学生時代は、写真のジャンルに垣根がありました。アーティストはアーティスト、ファッションはファッション、というように。アーティストが広告をやれば「魂を売った」と言われるほどの空気感もあった。今はとても自由です。ムービーも手軽にできるようになりました。いろんな表現方法がミックスできる時代です。自分の中であまりボーダーを決めずに写真を使って挑戦したいと思っています。この前もDESIGNART TOKYO 2019で宝生流の二十世宗家宝生和英さんに能を舞っていただき、僕が撮影するというパフォーマンスを披露しました。そこに行かないと体験できないというのも面白いかなと思います。ネットで共有する楽しさ。参加する楽しさ。広がり方に興味があります。

この記事を見ているクリエイターにメッセージをお願いします。

今はとてもミックスされた世界で、いろんな人がいて、僕が写真を始めた頃とは違います。いろんなことにチャレンジする時代と理解して、この世界に入るといいのではないでしょうか。フリーランスになっている人は、こうあるべきととらわれず、いろいろやってみませんか。その方が面白い。
そして何かの道を極めるということが大切です。例えば、お寿司屋さんを極めた人がイタリアンを作ってもおいしい。丁寧さや接客なども含めて修行されているのだから、ジャンルが変わっても生きることがあると思います。
極めないと見えてこないことがあるので、修行中の方は頑張って欲しいし、僕も写真を中心に色んなことにチャレンジしていけたらと思っています。

取材日:2019年12月19日 ライター:久世 薫 スチール:あらいだいすけ ムービー:村上廣光(撮影)、遠藤究(編集)

プロフィール
フォトグラファー
瀬尾 浩司
写真家・植田正治に師事し、2000年からフリーの写真家として活動。CDジャケットや写真集、ファッション、雑誌、広告など、様々な分野で活躍。東京都写真美術館、植田正治写真美術館、新津美術館、高松市美術館などでワークショップを開催。銀塩写真をはじめとする技術の継承にも貢献している。2017年から日本の伝統文化の「家元」に焦点を当てた「OIEMOTO」シリーズの制作に着手。海外でも高い評価を受けている。

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