プロダクト2019.02.20

競輪選手から自転車販売店を立ち上げ、サイクルウェアやポスターのデザインへ

金沢
カツリーズサイクル&デザイン 代表、デザイナー 成田 加津利 氏
Profile
1967年生まれ、高校時代に自転車競技選手として国体優勝。卒業後、実業団へ。1989年にプロ転向。2000年に現役を引退、「カツリーズ」開業。メカニック、デザイナーとして活躍。
カツリーズサイクル&デザイン 代表の成田加津利(なりた かつとし)さんは、競輪選手として活躍後、幼少期を過ごした石川県へ戻り、自転車販売店を開業しました。オリジナルブランドを立ち上げ、スポーツ界からビジネスの世界へと転身を遂げます。ウェアのデザインや各地の自転車競技のデザインにも関わり、活躍の幅を広げています。スポーツ選手から起業、デザインの道に進んだ成田さんの来し方を振り返り、ふるさとへの思いをうかがいました。

芸術への道からスポーツの世界へコース変更

成田さんのご経歴について教えてください。

大阪府門真市に生まれました。小学校低学年の時、父が事業に失敗し、母方の実家があった富山県小矢部市に移り、中学生までを過ごしました。美容師だった母がその後、金沢で仕事をすることになり、家族で引っ越しました。少年時代は芸術とスポーツに興味があり、高校受験では、県立工業高校のデザイン科を受験しますがあえなく失敗。もう一つの道であるスポーツを志し、金沢高校に入学し自転車部へ入部しました。自転車部はオリンピックメダリストを輩出するほどの名門で厳しい練習の日々でしたが、監督の指導の下で練習を重ね、昭和60年の鳥取国体個人の部4,000メートルで優勝を果たすことができました。

実業団への入社

高校卒業後は美大を志望するのですか?

高校の美術教師だった日本画家の岩倉令峰先生にお会いすることができたのは幸運でした。ほかの科目はともかく、美術の授業には真面目に取り組んでいました。一時は美大への進学を志したこともありましたが、経済的な事情もあり断念。高校3年生の時に大阪の新家(あらや)工業から実業団チームを本格稼働させるにあたって入社しないかと声をかけていただきました。新家工業は石川県加賀市が発祥の自転車のリム(ホイールの外周部分)の世界的なメーカーです。スカウトに来られた監督には、自分が選手を引退した後は企業に残りデザインの仕事をしていきたいという希望を伝えていました。

結局、大阪の新家工業へ就職されたのですね。

新家工業からは、自転車に乗れて、絵も描けるという自分の希望も聞き入れてもらえましたし、海外への留学の話もありました。その熱意に惹かれて、1986年(昭和61年)の春に新家工業に入社しました。独身寮に入り、午後2時までは仕事をして、その後は自転車選手としてトレーニングを行う毎日でした。

新家工業での選手成績は

全日本実業団自転車競技選手権大会で優勝、国際選手権大会6位、ツールド北海道2位、いずれも個人です。高校の時はトレーニングについてはある程度管理されていたのですが、実業団では、トレーニングを全て自己管理する必要があり、慣れるまでの半年間は苦労しました。持久力はないものの、瞬発力のあるスピードが速いタイプで、スピードだけで言えば憧れの先輩たちよりも速かったと思います。ですから先輩たちにとっては格好の練習相手でした。私がもっと強くなれば、先輩たちはもっとよい練習ができるので、その分真剣に私を鍛えようとトレーニングについて教えてもらえました。

プロへの道を選ぶ。競輪選手に転向果たす。

実業団にはどれくらい在籍していたのですか?

新家工業に所属していたのは2年間です。待遇に不満はありませんでしたが、やはり何倍も稼げる競輪選手はあこがれであり、選手としてもっと高みを目指したいと退社しました。競輪選手資格認定合格のため、日本競輪学校に入学し、10ヶ月間を静岡県で過ごしました。競輪学校では自転車競技のことだけに専念でき、課業を休むことも、赤点も無く皆勤賞でした。競輪選手としてのデビューは平成元年。現役生活12年間で100勝を超える成績を収めることができました。日本全国約40の競輪場を年間30レース、月に2,5回のペースで転戦していました。競輪発祥の地として知られる福岡の小倉競輪場では、何故かファンが多く、小倉のレースには多く呼ばれました。

自転車競技の本場イタリアでデザイナーに目覚める

競輪選手を引退するきっかけになったのは?

競輪の世界で戦いながら、自分は競輪には向いていないのではと自問自答する毎日でした。ほかの選手の前に出るために激しくぶつかり合うという、ある種格闘技にも似た競技でした。これは向いていないなと感じました。33歳になった平成12年、ロードレースチームNIPPO(ニッポ)からメカニシャンとしてのオファーを受け、引退を決意、イタリアへ渡ります。NIPPOは、旧「日本舗道」というゼネコンが所有する自転車チームでイタリアがメーンフィールドでしたので、チームのメカニシャンとしてイタリアのバレーゼで2シーズンを過ごしました。

そして石川県に帰ってくるのですか?

実は平成3年、故郷で開催された石川国体で自転車競技の監督からメカニシャンに就任してほしいと要請を受けました。現役の競輪選手ではあったのですが、地元の選手たちを支えたいという思いから引き受けました。競技用のパーツを海外から輸入し、整備を担当します。国体で総合優勝を果たせたことは今でも自分の誇りですね。自分が選手として走って優勝した時よりも大きな喜びを得られました。

そこから自転車関連のデザインにも幅を広げていかれたのですね。

2年間NIPPOでメカニシャンを経験する中で、メカニックの腕よりもデザインを監督から評価され、ユニフォームやチームカーなどのデザインを任せられるようになりました。デザインならばイタリアにいる必要もなく、日本で自転車販売店を営業しながらやっていけると思い、その頃から現在の形態に近づいていきました。現役を引退した後、本格的に自転車販売店を展開しようと考え、それまでの金沢市から石川県立自転車競技場があった隣の内灘町へ本拠を移します。

自転車を軸にデザインで地域を発信していきたい

オリジナルブランド「Köchel(ケッヘル)」のロゴマーク

カツリーズサイクル&デザインの現在の業務について教えてください。

パーツやフレームはメイドインイタリーにこだわっています。そしてオリジナルブランドの展開に力を入れています。自転車のフレームも、こちらで企画、デザインしたものを仲の良い職人さんに依頼して製作しています。職人さんは日本と、台湾の方が多いですね。フルオーダーメイドの自転車の注文も受け付けています。競輪選手や愛好家など、様々なお客様が求める、乗り心地や耐久性、そしてデザインの要望をお聞きして、「世界で1台の自転車」を創り出すお手伝いをしています。3年前からは「ケッヘルV.Cスプートニク」という実業団チームを監督として運営しています。選手は16名、普段は皆フルタイムワーカーとして仕事をしていますが、日本でも6位くらいに入る選手もいます。オリンピック選手も育ちましたが、資金調達が大変です。

自転車選手からデザインの道に入るきっかけは?

NIPPOは世界的にも名の通ったチームであり、そのユニフォームをデザインしたことで、一流チームのデザイナーという評価をいただくようになりました。サイクルアパレルの分野は日本ではいまだに遅れていて、私からみるとまだまだ未成熟。芸術の勉強を積んできた訳ではありませんが、実際に本場の国々で本物のレースを見て、雰囲気を感じてきた経験があるからこそ、自分のデザインが認められているのだと思っています。

現在の業務の中心は

サイクルウェアのデザインがメインです。デザイン料についてはたくさんはいただいておりませんが、最終的な品物までをプロデュースしているので、売上の7割くらいを占めています。また、車体のデザインも行っています。現在トヨタが本格的な自転車チームをつくるにあたり、その自転車とウェア、サポートカーのデザインを担当しています。

オリジナルブランドについて教えてください。

ウェアブランドとしては「Köchel(ケッヘル)」、これはモーツァルトの全作品目録を出版した、オーストリアのモーツァルト研究家の名前をブランド名にしています。自転車のブランドとしては「sputnik(スプートニク)」があります。これはカザフスタンに実際にあった自転車のブランドですが、そのブランド名を買い取りました。今では珍しいイタリアの木製リムをパーツに用いているものもあります。

金沢や高岡など街の名前をモチーフにしたサイクルウェアをデザインされていますね。

自転車競技が開かれる自治体からの依頼があり制作したことがきっかけでした。「L♥VE mia città」、「愛しきわが街」というシリーズで地方を発信していければと取り組んでいます。富山県高岡市で開催される大会のウェアのデザインをした時には高橋正樹高岡市長からもウェアを買い求めたいと直接電話で問い合わせをいただきました。国体のユニフォームでは今まで37の都道府県でデザインを担当しており、今後はサイクルウェアを通して全国各地を発信するお手伝いを繰り広げたいですね。

自転車やユニフォーム以外にデザインされたことはありますか?

大会のパンフレットやポスター、ショップの看板などもデザインします。一度イタリアのワイン会社のチームがジロ・デ・イタリアという世界的な自転車の大会に出場した記念として、ワインボトルのエチケットをデザインしたこともあります。

石川県の自転車競技大会「ツール・ド・のと」にも関わられていますよね。

デザイナーは絵を描くだけという時代ではないと思っています。「ツール・ド・のと」では実行委員会のメンバーでプロデューサーとして、ゲストの選定やコースのデザインなど、総合プロデュースを行っています。石川県宝達志水町で開催される「宝達山ヒルクライム」の運営にも実行委員として携わっています。デザインを専門的に学んだことはありませんが、自転車を通していかにデザインに向き合っていけるかが自分のミッション。これからも自転車を軸にデザインで地域を発信していきたいと思っています。

取材日:取材日:2018年11月19日 ライター:加茂谷 慎治

成田 加津利(なりた かずとし)

プロフィール 1967年生まれ、金沢高校時代に自転車競技選手として国体で優勝、卒業後は実業団へ進む。1989年に競輪選手に転向、2000年に現役を引退「カツリーズ」を開業、メカニック、デザイナーとして活躍し、現在サイクルウェア及びグッズのデザイン、ロードバイク等のデザイン・メンテンス・販売等を行う。http://katsuri.com/

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