職種その他2017.03.15

ふるさと福島への思いを秘めながら仙台に。リスナーとの「時間の共有、想いの共感」を大切にしたいラジオディレクター

仙台
ラジオディレクター Kumiko Matsumoto
松本 久美子氏
福島県出身。2011年、TBSラジオ、ラジオ福島にて、ライター・ラジオリポーター。2012年よりFM仙台にてラジオパーソナリティ、番組制作ディレクター。2014年6月より東北放送株式会社ラジオ制作局にて、ラジオ制作におけるディレクターを務める。
地方で活躍するクリエイターを紹介する「LOVE LOCAL」第2回は、故郷の福島でクリエイターとして経験を積み、現在は仙台でラジオディレクターとして活躍する松本 久美子(まつもと くみこ)さんにインタービューしました。ラジオ番組作りへの思いや、東日本大震災の取材を経て感じたこと、そしてUターン・Iターンを視野に入れているクリエイターへのアドバイスも聞きました。

テレビ局勤務から始まったマスメディア業界。震災を機にラジオ制作の世界へ

これまでのキャリアについて教えてください。

大学を卒業して間もなく、福島テレビエンタープライズで仕事し始めたのが、マスメディアに入るきっかけでした。報道に配属になり、最初はADとしてタイムキーパーやキューシート作成、時には裁判の傍聴券を取りに行ったりとオールマイティーな業務を行いながらフロアマネージャーや局長秘書などを務め、4年ほど勤務しました。その後、広告代理店での勤務経験を経て、クリエイターとしてのキャリアを積みました。

ラジオのお仕事をはじめられたきっかけは?

2011年の東日本大震災が発生した時、私は福島県の広告代理店に勤務しており、クライアントとの商談中に大きな、大きな揺れに遭遇しました。
東北新幹線の福島駅の高架橋付近にある事務所の打ち合わせだったため、外に出ると目の前には大きく電線が揺れる光景、高架橋のつなぎ目の石と石との何とも言えないひずみ音、擦れて落ちてくる石のかけらや、粉じん…目の前には、いつもの穏やかな街並みに突如灰色がかった景色が広がり、とても不安を感じました。
無事を知らせようと、事務所まで急いで帰った道程では印刷工場が燃えあがり立ち上る煙、焦げ付く臭い、消防車のサイレン、踏切の音、通りすがりの人達の苛立った声など、非日常的な異様な光景がありました。思う様に行動できずに、苛立ちを感じた記憶があります。

震災後は福島第一原子力発電所事故により、福島県内の各事業所は自宅待機期間が長くありました。広告代理業ということもあり、CMの差し替えや自粛により会社では当面の営業利益が見通せないため人員整理のための話し合いがもたれました。 私は、家族3人(夫、こども)、共働きだったため仕事を一時的にあきらめ、自宅待機の道を選びました。本当にこの先どうなるのか全く見えず、震災後3カ月間は絶望していたような気がします。

そこからどのようにして、ラジオのお仕事に出会ったのですか?

退職後すぐに、福島県の“いま"を日本中に伝える番組「ふくしま観光ジャーナル」というプロジェクトが発足し、ラジオ福島やTBSラジオに出演する仕事に恵まれました。 “音"しかない「ラジオ」という媒体で、震災後の福島を実際に自分の足で取材し、現地の情報、現地の人のナマの声を録音し、現状を伝える番組でした。振り返ると、その当時の福島は映像や新聞、雑誌の中では“悲惨"な状況だったのかもしれませんが、意外にも人々の声は震災前より強さが増し、前向きに、今後の夢や自分自身のビジョンを明確にさせて声高らかに宣言していたように思えます。 これがラジオの仕事に携わるようになったきっかけです。

現在のお仕事について教えてください。

福島でのラジオ番組レポーターを経験後、子供の進学を機に、家族で宮城県仙台市に引っ越しをしました。「福島の今を伝える」ためにまい進していた中で、後ろめたい気持ち、迷いがありましたが、家族を優先したための選択でした。隣県でも福島のことは伝えられる、という信念を持ち続けていたからでしょう。

その後、宮城県の観光情報を発信するラジオ番組(DateFM)「笑顔咲くたび伊達な旅Traveling MIYAGI」に出会い、番組ではスタジオMCを担当しました。しかし「話す」MC業より、リサーチや取材、構成をしている方が向いているとひしひしと感じたことがきっかけでラジオディレクター業にシフトしていきました。他番組のディレクターを経験後、2014年6月からTBCラジオの午後ワイド3時間生放送「ロジャー大葉のラジオな気分」(D)、「TBCこども音楽コンクール」(D)「絆みやぎ3.11ホットライン」(AD)など少しずつ仕事の幅を広げながら地道にラジオディレクターの道を進んできました。

TBCラジオ、午後1時から4時までの3時間生放送「ロジャー大葉のラジオな気分」は、本当にラジオが好きな人間が携わっている午後ワイド番組で、この番組のディレクターを担当できたことは、私の転機になりました。
声だけで伝える、時間を共有する3時間は当たり前のことですが、スタジオだけではなく聞いている方々のそれぞれの環境も想像し、パーソナリティの“声"で時間をいかに心地良い時間にするか、リラックスしてもらうか、ふふっと笑える、面白いものにするかを考えながらのぞんでいます。
コーナー毎の緩急、点と点を「線」にして3時間の生放送で「時間を紡ぐ」のが私(ディレクター)の役割ですので、その紡いだ線がまっすぐか、ゆがんでいるか、曲がっているかは毎日違っています。ここが聴きどころなのかな、と感じています(笑)。

また、「TBCこども音楽コンクール」はとても思い入れのある番組です。小中学生が、学校単位で声楽、器楽の練習の成果を発表し、東北6県での各地区大会、代表校による東北大会、最優秀賞を受賞した学校が全国の強豪校と最高位を争う全国大会……ただの音楽コンクールではありません。地区大会のステージまでの過酷な練習、メンバーとの切磋琢磨、演奏をより素敵なものにしたいという生徒達の気持ち、子供たちを見守る親御さん達の手厚いサポート、結果に一喜一憂する涙、笑顔など……本当に各学校、1団体ずつに語りつくせない素敵なストーリーがたくさんあるのです。

この「音楽」はラジオに欠かせないものであり、大事にしなければならないものだと思っています。

東日本大震災を伝え続けること、そして、本当の復興を見届けることが自分たちの役割。

被災地を取材してこられたと伺いましたが、当時のことをお話いただけますか?まず、どんな取材をされてきたのですか?

震災後、仕事を失って出会ったもうひとつの大きい出来事があります。それは『プロジェクトFUKUSHIMA!』(http://www.pj-fukushima.jp/)という音楽を中心としたフェスティバルにボランティアで参加したことです。福島出身、在住の音楽家と詩人たちと「いまの福島を、そしてこれからの福島の姿を、全世界へ向けて発信する、FUKUSHIMAをポジティブな言葉に変えていく」というコンセプトのもとプロジェクトは発足しました。
震災発生後すぐに立ち上がったプロジェクトは、生まれ育った故郷を失ってしまうかもしれないという不安の中で始まりましたが、ものすごいスピード感と発想力(アイディア)に満ちあふれていて……1万人規模の大型の野外フェスティバルとなり、このプロジェクトに参加したくさんの人と出会えたことが私の人生を変えていきました。もちろん、被災した故郷を大事に思う気持ちも目に見えて強くなり、核になっていきました。

当時の取材では、ラジオ福島の放送に乗せる素材集めとして、当時何よりも情報が早かったSNSを使って、くまなく被災状況をリサーチしました。ご存知の通り、福島県には避難区域もあるので、十分に配慮しながら、かろうじて足を運べる南相馬・相馬・いわき辺りまで出向き、津波や原発事故などでもっとも震災の被害に遭われた沿岸部にいらっしゃる方にだけお話を聞くことからスタートしたのです。

時間が経つにつれて、被災状況や亡くなった方、避難区域への思いなどもお話いただけるようになり、どんな気持ちか、これからどうしていくか、それぞれに言える範囲・聞ける範囲にも配慮しながら伺いましたね。現地に住んでいる方と避難区域から来られた方が共存していくことや、温泉や宿泊施設の経営者の方に今後のビジョンを伺うなど、取材を進める内に、地域のお祭りや福島の良さが浮き彫りになり、長く生活している人にスポットを当て、切り口を変えながら取材の対象を広げていきました。

ラジオの役割について、(ラジオディレクターとして制作の立場として)感じられたことはなんですか?

震災後、ラジオのあり方がさらに大事になってきたと感じています。「声」と「音」のみでの放送は、なにより想像力が重要となります。震災後6年が経過した中で当時の被災映像を見るのも聞くのも嫌な方はまだまだたくさんいらっしゃいます。不安だけが大きく浮き彫りになるような放送より、これから未来へ向けてこの経験をどのように改善し活かしていくか、そのために希望をもって活動している人たちをより多く取材したいと心がけています。

6年経って今、伝えたいこと。感じていることをお話ください。

継続取材の大事さを感じています。現地に何度も足を運んで、住民の方々のその時々の心情を拾って記録に残していきたいですね。建物が建つことが復興なのではなく、その地に住んでらっしゃる方々が不安なく生活できるようになるのが本当に意味での復興。そして、それにはまだまだ時間が必要です。現在は震災を経験した卒業生を何名か追っかけ取材しているのですが、こちらが気を遣うような辛い被災経験も、自分たちが後世に伝えていかなければという思いで話してくれます。ボランティアに参加したり、講演会を開催したり、本当に素晴らしい子たちです。その子たちが大人になっていく過程を追いかけていくのは大変なことですが、次世代へ伝えて行くのが私たちの役割ですから、継続的に頑張っていきたいです。

やりたいことにチャレンジできる環境が整った仙台のクリエイティブ業界

松本さんは、地元、福島や仙台で働いてこられましたが、 仙台で働くことの良さはどんなところにありますか。

東北の中で一番の都市ということもあり、仙台は仕事が多いですね。自分の心構えや行動次第で、チャレンジできる環境が整っているのは素晴らしいことだと思います。 それに、やりたいことが漠然としている場合でも、とりあえずやってみることができますし、自分の意見を発信するなど、上司や先輩ともコミュニケーションを取れるのが魅力ですね。

仙台での暮らしや文化について、気に入っている点や自慢したいことなど、 仙台LOVEなお話を聞かせてください。

食事とお酒がおいしいので、仕事論や本音を飲み二ケーションしながら、分かち合えるのが良いですね。普段話しづらいこともお酒の席なら話せますし、こういう思いの人と仕事しているのだと思えたら、距離感も縮まりますよね。

未来ある子どもたちが、世界へ羽ばたくための支援がこれからの目標

今後、どんなことをしていきたいとお考えですか?目指していること、今後の展望、将来のビジョンなどを教えてください。

まずは、初心を忘れずより良い番組を作り続けるというのが目標ですね。 あと夢の1つとして、これから羽ばたいていく子供たちが、勉強・スポーツ・文化において海外でも活躍できるようにサポートできたらと思っています。 震災を機に知り合い、手を差し伸べてくださる海外の方々がいらっしゃるので、このネットワークを支援だけではなく、個人の夢にも活かしていきたいです。 日本の文化は世界的にも広がっているので、より多くの方に世界へ羽ばたいてもらえたら嬉しいですね。ラジオで叶えられる範囲だけではなく、私の人生の目標として、自分がしてもらって良かったことを、次世代に返していけたらと思っています。

今後、Iターン、Uターンを考えているクリエイターへのアドバイスや仙台で働くことの良さなどをお願いします。

先程もお話をした通り、仙台はチャレンジできる機会に恵まれた環境です。そのため、自分が次に進みたい、行動を起こしたい時に、今までの人脈をフルに活用できるよう、どこの職場でも円満に過ごしてくださいね。そうした日々の仕事が将来自分を助けてくれます。そして「自分を見つけてくれ」ではなく、今は自分の価値観をSNSなどで簡単にアピールすることができるので、自信を持って積極的に発信していくことが大事です。

取材日: 2017年2月20日 ライター: 桜井玉蘭

 

松本 久美子(まつもと くみこ)

福島県出身。2011年、TBSラジオ、ラジオ福島にて、ライター・ラジオリポーター。2012年よりFM仙台にてラジオパーソナリティ、番組制作ディレクター。2014年6月より東北放送株式会社ラジオ制作局にて、ラジオ制作におけるディレクターを務める。広告代理店やラジオ局で「地域観光活性化」のための情報発信事業(番組制作)を経験。「東北の復興・活性化」に強い思いがあり人生をかけて携わっていきたいと強く思っている。

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