WEB・モバイル2016.10.12

初の海外進出映画『ダゲレオタイプの女』を撮った黒沢清監督に聞く

Vol.134
映画監督 黒沢清
昨年のカンヌ国際映画祭で『岸辺の旅』が「ある視点」部門監督賞を受賞、『トウキョウソナタ』(2008)で同映画祭の「ある視点」部門審査員賞受賞に続く快挙を果たした黒沢清監督。『CURE キュア』(1997)以降に撮った映画は、ほぼ全作品がフランス国内で上映され、カンヌだけでなくヴェネチア、ベルリンという世界三大映画祭では常連の映画監督として高い評価を博す。初めてオール海外ロケ、外国人キャスト、そして全編フランス語で撮りあげた海外進出作品『ダゲレオタイプの女』の公開を控える今の心境や本作、共同製作について話を聞いた。
 

オリジナル作品を撮るなら 海外共同製作は避けられない時代

黒沢清監督

黒沢清監督

オール外国人キャストで、オールフランスロケという海外進出作品は日本の映画監督では非常に珍しいケースですね。

いい出会いが重なって、こうした映画を撮るチャンスをいただきましたが、直前まで信じられませんでした。ただ、海外資本で映画を撮るということは、かなり前から日本でも始まっています。僕の作品も少し前から、日本の資金だけではとても撮れない、いろいろな国の出資によって共同製作というかたちで映画を撮ることが多くなってきている状況です。ただ、日本で撮影したものは見かけは、日本の映画ですが。

黒沢監督でも、いま現在の日本の映画業界ではいわゆる“原作モノ"ではなく、オリジナル作品を撮るのは難しい状況にあるのでしょうか。

予算などを考えると、やっぱり難しいですね。でもこうした状況は、僕自身がこの業界に入った時から変わらないので、慣れっこにはなっています。ですからいま活躍している日本の映画監督のほとんどの方々が僕も含めて「海外で映画を撮れたら」と切望している状況だとは思います。

本作のアイデアはいつから温めていたのですか。

もう20年ぐらい前にイギリス人のプロデューサーから「イギリスでホラー映画を撮らないか」と話を持ちかけられた時に考えたプロットをもとにしました。結局その時には映画製作には至りませんでしたが、今回フランス在住の日本人プロデューサーから、「海外で撮影できるオリジナル作品はないか」ともちかけられた時に、「昔考えたこうしたプロットがあるのですが」と提案をしたことから始まりました。

本作で幼年時代からの夢を実現 映画は世界共通言語だと実感

フェルメールや欧州の絵画を彷彿とさせるような美しいカットがいくつも印象に残りました。

ああいう古い西洋の館で行われるおどろおどろしい物語、ゴシックホラーと呼ばれる映画が昔から大好きでよく観ていたので、「いつか撮ってみたいなあ」とずっと思っていたんです。日本でもなんとかして撮ろうと思って四苦八苦してきましたが、日本にあんな洋館はまずないので、今回は単純に昔からの自分の夢を実現できたという感じです。フレーミングや映像的な美しさだとか雰囲気は、フランス人の撮影監督や美術部がつくった部分が大きいですね。撮影スタッフは熟練者ばかりですが、彼らもあんな古い洋館でゴシックホラー的な画作りをすることはこれまでなかったようで、「こんな画が撮れると思わなかった」と大喜びで、とても興奮していましたね。

言葉も文化も違う国の座組みで映画を撮るにあたって、どんなご苦労がありましたか。

どんな大変なことになるんだろうと最初は戦々恐々としていましたが、全然大丈夫だったので驚きました。もちろん優秀な通訳の方が必要ですが、わからないのは俳優のセリフの微妙なニュアンスだけで、その点は俳優に任せています。それ以外で僕が「こんな風に撮りたい」と言って通訳が伝えるとその途端に「あなたの狙いは完璧にわかった。だったら、こうしてみませんか」とすぐにスタッフが動き出したり反応があって、実にスムーズに撮影が進んでいく。本当に気持ちのいい現場でしたし、やっぱり映画の言葉って世界共通なんだと改めて実感しました。

主演のタハール・ラヒムさんの細やかな感情の演技に魅せられました。どんな演出があったのですか。

彼は、本当に特別な俳優です。表現者ですね。脚本から読み取れるいくつかの感情を彼なりに細かく区分して、異なる感情の微妙な混ざり具合を設計し、驚くほど的確に、しかも力強く表現する。もともと日本人よりも、身振り手振りや表情が豊かという文化の違いもあるかもしれませんが、日本の俳優では考えられないほど、微妙なニュアンスも細やかに表現するんだ、と驚きました。タハールは天才です。

海外で映画を製作するにあたって脚本の書き方は日本とは異なるのでしょうか。

僕の場合は日本で書く脚本とほとんど変わらない形式で日本語で書いたものをフランス語に翻訳してもらいました。フランスの脚本は一般的にかなり細かく記述するようで、現地のスタッフからは、「書き込みが少なすぎる」と言われました。日本風に、最低限の情報しか書いてない脚本を提出したので、少し戸惑われていたようですが、「まだどんな場所で撮るのかも決まっていないので、その場所の雰囲気までは書きたくない、書きようがないんだ」と言いました。それはそれで受け入れてもらいましたね。

© FILM-IN-EVOLUTION - LES PRODUCTIONS BALTHAZAR - FRAKAS PRODUCTIONS – LFDLPA Japan Film Partners - ARTE France Cinéma

ドキュメンタリーでもフィクションでも 共通する撮影や編集技術とその背景

マスコミ記者会見には、主演のタハール・ラヒム氏も来日。黒沢監督とともに撮影現場の様子を語った。

マスコミ記者会見には、主演のタハール・ラヒム氏も来日。黒沢監督とともに撮影現場の様子を語った。

 

書き込みが少ないのは、撮影状況に臨機応変に対応したり、スタッフからのアイデアや提案の余白を残すためですか。

そうですね。大昔の映画は、何もないところからスタジオでセットをつくって人工的な光の中で撮っていました。そのような時代には、監督のイメージ意図がよくも悪くも反映されていったのでしょうけれど、いまの時代、日本はもちろんフランスでもそんな贅沢な撮影はできないので、今回もスタジオ撮りは一箇所もありません。全部ロケ地です。ですから、その場所の景色、その日の天候、気温、すべてに左右されますし、逆にそれを上手に活かしていくのが映画作りです。暑ければ俳優の上着は脱ぎましょうとなるし、遠くで鳥が鳴いていればその音を活かしたりもするし、スタッフの意見はもちろん、カメラが回ろうとしているその時その時の状況や環境をいかに表現として取り込むことができるのかが映画づくりのポイントです。それはフランスも日本もまったく一緒でした。

ある種、ドキュメンタリーの撮影に近いようにも聞こえますね。

僕自身はドキュメンタリー作品を撮ったことはないので、その違いを正確に言うことはできませんが、撮影側のスタンスは、おそらくまったく変わらないと思います。多くのドキュメンタリー作品も、監督がある程度「これを伝えたい」という意図やテーマを持って撮影や編集を行うわけですから、自然とプロットや物語性のようなものが生まれてくるはずです。ですから、そうしたテーマや“物語性"に沿って撮影や編集を行うという点ではドキュメンタリーもフィクションも同じだと言えるでしょう。フィクション作品でどんなに脚本がしっかりあっても、実際に撮影をする段階で、ロケ地で急に雨が降ったりという予測不可能な環境の変化や、人間が撮っている訳ですから何が起こるのかわからない偶発性の要素は排除できません。それをいかに表現に取り込めるかが監督に問われるので、結果的に(ドキュメンタリーもフィクションも)ほぼ同じなのではないかと僕は思います。僕はフィクションを撮っていますが、出来上がった作品が必ずしも脚本通りということではありませんしね。

ラストシーンを撮り終えた後、フランス語で「完璧だ!」と仰ったそうですが、どんなミラクルが起こったのでしょうか。

結構、よく言っているかもしれません(笑)。それは決して嘘を言っている訳ではなくて「本当にうまくいった、パーフェクトだ」と言う時は、最初に自分の中で思い描いていたイメージの通りという訳ではないんです。最初に思っていたイメージ通りの撮影は、まあ、70点か80点なんですよ。自分だけで考えたり思い描いていたイメージよりもすべて上回っちゃった、という時に「パーフェクト」と言いますね。「こんな光が差し込むと思わなかった」とか、「俳優がこんな演技を見せてくれると思わなかった」という、予想をはるかに上回っていた時、その瞬間が、映画づくりの醍醐味ですね

この作品はミステリーであると同時に「ダゲレオタイプ」という最古の撮影方法が作品のモチーフになっていて、それが黒沢監督の映画批評、もしくはメディア批評にも感じられたのですが。

そうですね。批評というより、やや自嘲的な視点と言えるかもしれません。この映画には、デジタル化の現代において「ダゲレオタイプ」という一世代前の古い撮影手法にこだわって撮影をしているステファンという父親が登場しますが、彼は誰にも理解されずに自滅していく狂気的な存在です。でも、よく考えてみると、僕自身も、そして映画というものも、ほぼ同じではないかと思うんですね。今時スチール写真はもちろん、動画なんて、誰もが簡単に撮れるものになりましたし、そうした動画がいくらでもネットに氾濫している時代なのに、僕は映画で1カットを撮るのに1、2時間もかけて、俳優に衣装を着せて、何度もリハーサルをして、照明を当てたり、何度もアングルを変えて角度や場所を吟味したりして、ほんの数十秒のカットに何時間もかけて撮影をし「OK、パーフェクト」と言う。そこまでするのはどうしてかというと、やっぱり「何か特別なものが映るはずだ」と信じているからで、一般の方がただカメラを回しているだけでは撮れない“何か"が必ず映り込んでいるはずだという幻想、もっと言うと狂気に近いものがあるからですよね。でもそれがあるからこそ、映画が今日までかろうじて現存していると思うんです。この映画を撮りながら「映画って変わらないんだな」といつも感じていました。でも映画って、そういう時代遅れで狂っているけれども、未だに若い人たちも惹かれていく不思議な表現方法だと思います。

※ダゲレオタイプ フランスで生まれた世界最古の写真撮影方法。長時間の露光を必要とするため、動かぬように身体を拘束する。直接銀板に焼き付けるその写真は世界に1つしか残らない。

でも黒沢監督の映画は、確かにその“何か"を感じさせると本作で改めて実感させられました。特に最後のシーンでは、現実と仮想現実の境界線が曖昧になったり、どこかでそれを求めざるをえない人間の欲望は、いつの時代も共通なのかもしれないと考えさせられました。

つくづく思うのですが、最新のデジタル技術で撮ったハリウッド映画を観ても、ものすごく凝った画作りをしているんですね。画作りはやっぱりすごく古風なんです。先ほど、フェルメールとおっしゃいましたが、映画が生まれた瞬間から今日のデジタルに至るまで、昔の美しい絵画のような映像を理想としてつくられ続けて来たんだと思います。美しいと言うのか、人を幻惑させるというのか、神秘的な何かが映像に宿るということを目指して映画は今日までつくられてきたのではないでしょうか。報道やスポーツ中継の映像などとは違って、何かそこに永遠性、普遍性が感じられる映像は、手段や手法はどうであれ、何千年という歴史の中で人類が培ってきた絵画的な美意識のようなものに支えられているのだろうと思います。

最後に、今後世界を舞台に道を切り開こうとしている映画監督にアドバイスをお願いします。

こればっかりは偶然の出会いが成せるところが大きいので、そのチャンスをつくるためには、映画祭も含めて機会がある限り、海外に出て行った方がいいと思います。僕ができるアドバイスといえば、若い人や多くの人が一番ためらうのは言語だと思うんです。僕もそうでしたが、海外に行くには、まず英会話教室に行くところから始めないと、と思うでしょうが、監督の場合は、通訳がいれば、まったく大丈夫なので、言葉ができないからと言って尻込みする必要はないと言えますね。

今回の初海外進出となる作品の撮影が上手くいったのは、黒沢監督の90年代後半以降の作品のほぼ全作品がフランスで上映されていて、その世界観をみなさん理解していたという素地があった要素が働いたような気もするのですが、その部分に関してはいかがでしょうか。

それはそうかもしれません。僕が何を求めているのかは、これまでの作品を観れば、少しは理解しやすかったというのはあるでしょう。別の言い方をすると、僕が今回初めて海外で撮影できたのは60歳になってからです。海外で僕の映画を上映してくれるようになったのは40歳過ぎてからです。少なくとも映画をやろうとする限り、気長にしぶとく欲望を持って自分の世界観を撮り続けていけば、いつか、40歳、50歳のときに突然チャンスが巡ってくることはあるので、焦る必要はないということです。

 

取材日:9月15日 ライター:河本洋燈

黒沢 清(映画監督)

1955年、神戸市生まれ。高校時代から自主映画を制作し、立教大学では蓮實重彦に師事。『しがらみ学園』(1981年)が映画監督の登竜門ぴあフィルムフェスティバルに入選。相米慎二監督作で助監督を務めた後、『神田川淫乱戦争』(83)で長編監督デビュー。オリジナル脚本『カリスマ』で米サンダンス・インスティテュートの奨学制度を獲得して渡米。帰国後は哀川翔主演の『勝手にしやがれ!!』シリーズ(95~96)などでメガホンをとり、『CURE キュア』(97年)でフランスの著名な映画批評家ジャン=ミシェル・フロドンがル・モンド紙で大絶賛して世界的な注目を集め、『回路』(2000)では第54回カンヌ国際映画祭国際批評家連盟賞を受賞、『トウキョウソナタ』(08)ではカンヌ映画祭「ある視点」部門審査員賞を受賞した。近年の作品に、連続ドラマ「贖罪」(12)や、映画『リアル 完全なる首長竜の日』(13)、『クリーピー 偽りの隣人』(16)など。今年6月には米アカデミー賞を主催する映画芸術科学アカデミーによって会員に選出された。

 
ダゲレオタイプ

『ダゲレオタイプの女』

タハール・ラヒム、コンスタンス・ルソー、オリヴィエ・グルメ、 マチュー・アマルリック

監督・脚本:黒沢清 撮影:アレクシ・カヴィルシ-ヌ 音楽:グレゴワール・エッツェル 提供:LFDLPA Japan Film Partners (ビターズ・エンド、バップ、WOWOW) 配給:ビターズ・エンド 10月15日(土)より、ヒューマントラストシネマ有楽町、 新宿シネマカリテほか全国公開!

 

愛が幻想を見せ、愛が悲劇を呼ぶ

ダゲレオタイプの写真家ステファンのアシスタントに偶然なったジャン。その撮影方法の不思議さに惹かれ、 ダゲレオタイプのモデルを務めるステファンの娘マリー恋心を募らせる。しかし、その撮影は「愛」だけではなく苦痛を伴うものだった……。 芸術と愛情を混同したアーティストである写真家のエゴイスティックさ、父を慕いながらも拘束され続ける撮影を離れ自らの人生をつかみたいマリーの想い、撮影に魅了されながらもただマリーとともに生きたいというジャンの願い、そして、自ら命を絶っていたステファンの妻の幻影…… 愛が命を削り、愛が幻影を見せ、愛が悲劇を呼ぶ。世界最古の撮影を通して交わされる愛の物語であり、愛から始まる取り返しのつかない悲劇。 (2016/フランス=ベルギー=日本合作/131分/PG-12/)

くわしくは、『ダゲレオタイプの女』公式サイトをご覧ください。

 
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