『「社会」と「学校」、「親」と「家族」、「階級」と「カネ」、「友だち」との 関わりをまるごと描くのが、井筒和幸製の不良劇』

Vol.010
井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏

我が人生で激動の年となった1980年、に若衆集めの“井筒組"スタッフたちは『ガキ帝国』という初めての一般映画に、挑んだのだった。新聞に「君も紳助・竜介と一緒に映画出演しよう。役者経験のない人も大歓迎。我こそはと思う血気盛んな若者たち、集まれ」ってな感じの広告を出し、役者オーディションをした。写真書類での応募は1,000人を超えていた。その中から選んだ300人ほどを一人ずつ面談した。

「現場で本物のケンカができるというのを聞いて」とか、「青春の思い出にしたくて」とか、意味不明な不良や呑気な若者たちも多かったが、中でも、「去年まで京都東映の大部屋(俳優センターのこと)にいまして、ちょん髷の町人をやったり、兵隊やったり、斬られたりしてたんですが、こんなことやってても芽が出ないかと思って辞めて、今、心斎橋のスポーツ店で働いてますが、東映でやり残してきたことを何でもいいからやれたら」と言う小柄な青年が何だか頼もしくも哀れに思えた。「この映画が終ったらまたスポーツ店に戻るわけか?店は休めるのか?」と色々聞いたら、「別にこの先はどうでもいいんです。今がやるのが大事かなと」と思い詰めたように答えたので、すぐに面談即決で採用だった。

映画に出演した後、また『役者心』に火がついたか、東京に出てきて小さな映画の小さな役や劇団「自転車キンクリーツカンパニー」で舞台を踏んだりして、やがて、大阪ローカル発の「サカイ引越センター」のCMの唄の下手な変なおっさん役で、♪~勉強しまっせ 引っ越しの~♪ と隣りの飼い犬でもマネて歌いそうなフレーズで人気者となり、俳優になったのが徳井優だ。徳井はけっして芝居が上手ではないが、キャラが誠実で面白いので、様々な映画やドラマに出演することになった。

そして、一番最後の日のオーディションにやって来た3人組の高校生らのキャラも際立っていた。風邪もひいていないのに白マスクをして、雨も降ってないのに黒のゴム長靴を履き、学生ズボンをズラして現れた、なかなか物騒な若者たちだった。「三人、まとめて受かって出たいです」とリーダー格が生意気にアピールすると、端でおとなしかったリーゼントヘアに白マスクが、「学校は休めますので」とつけ加えた。それが16才の木下ほうか、だった。

彼に後で聞いたが、「不良ヤンキーファッッションの恰好から決めてきたのは作戦だったんです」と。彼は、主人公の鉄工場に屑鉄を盗みに押しかけて、夜のドブ運河に落ちて泳ぐアパッチという不良グループの一員を演じた後、暴走族も卒業し、大阪芸大に進んでから吉本新喜劇の一座に入ったものの目が出ないので上京し、ありとあらゆるチョイ役とあらゆるアルバイトをしながら、ボクの「岸和田少年愚連隊」で初めて大役について業界に注目されて、今に至っているというわけだ。

とりわけ、どんなシーンだろうが元気いっぱい、全身を駆使し、「明日を煩うことなく今日を生きる」影の主人公、大阪の在日韓国人高校生・金田ケンイチ役を演じてのけた孤高のヒーロー、趙方豪(チョウ・バンホウ)は実はオーディション組ではなく、京都の「劇団・満開座」に所属する立命館大生だった。

舞台の楽屋に訪れて面会し、紳助と竜介コンビが相手役だわと伝えると、「誰だろうと出ますよ。そのまんまコーリャンの生きざまでしょ、愉しみです」と乗ってくれた。「舞台の芝居と違って、映画は全部、本気でやれるんでしょ。喧嘩シーン愉しみです」と威勢良かった。「10シーンはあるから、ケガしないようにな」と、ボクはクールな彼に精一杯で返していた。

ヤンチャな少年や青年たちの群像劇を、その後、ずっと撮り続けることになるとは思いもしなかったが、結局は、ボクは明日なき不良たちを映画のテーマに選んでは、激しく痛々しいアクション場面の連続する不良映画を創作してきた。いつの間にか、“不良モノ"の元祖と言われるほどになってしまった。

でも、人間は生まれた時から誰も不良はいないし、不良にしかなれない境遇を生きてきたのだ。街の何がそいつをグレ者にしたのか。どこの壁のポスターがそいつを唆(そそのか)したのか、誰がそいつを甘やかし、唾棄したのか、何がそいつを差別し、無視したのか。それを見つけてやらないと不良は描けない。それは紛れもなく「社会」と「学校」だし、「親」「家族」だし、「階級」と「カネ」だし、「友だち」だし、それとの関わりをまるごと描くのが、井筒和幸製の不良劇だと思っている。不良なりの起承転結を見つめてあげることが、彼らへのボクの愛憎だと思っている。

シナリオに書き込まれた金田“ケン"“リュウ"“チャボ"の3人組は、ボクらが大阪の方々の元不良たちの取材で得たキャラクターの寄せ集めだ。そして、色々な実話、事件がいっぱい混ざっている。60年代末の大阪を、誰と笑い合って、誰に怒り狂い、何に青春を捧げ、誰と恋をして、いつ行き止まり、そして、息絶えたのか。

たまに衛星放送などで映ると、稚拙な画像で恥ずかしい限りだが、あの激しかった皆の心意気が、早逝した趙方豪や、竜介や他の役者たちからどっと伝わってくると、彼らの思い出に涙ぐんでしまうのだが。

(続く)

井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU

■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。


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