角川映画もバブル経済に乗っていく。映画は作品であって、商品などと思いたくなかったが。ボク自身が商品になっていった。

Vol.025
井筒和幸の Get It Up !
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

80年代の日本人は、それぞれが自分の虚構を追っていく時代だった。「虚構」というのは、ただ夢を抱くというより、現実を忘れて「快楽」を探すという意味だ。

 

話は少し遡るが、70年の正月明けだかに観た、イギリス製のミニに乗った泥棒たちがイタリアのトリノの銀行を襲って金塊をせしめる『ミニミニ大作戦』(69)なんていう愉しい映画に、高校二年生のボクらがうつつを抜かしていた頃は、アメリカはベトナム戦争で金を使い果たし、経済は不振でドル札の値打ちも下がっていて、各国が競い合ってドル札を「金塊」に換え出して、アメリカの金の保有量が減ってしまう事態になっていたのだ。

 

アメリカはドルを守ろうと、つまり、ドルの流出を抑えようと輸入を制限。ドルの切下げが始まると、1ドルが360円から308円に下がって、逆に円は切上げられ、アメリカは輸出を増やし、日本や世界にモノを売りまくって経済を安定させようと必死になった。世界に出回っていたドルの値打ちは下がり、それが変動相場制になると、ドルはますます価値を下げ始め…、と、つまり、世界経済はすべてアメリカが牛耳っていて、アメリカが金回りの蛇口調整をするんだと、ボクら若者たちも初めて知ったのだった。

 

70年代初めのアメリカン・ニューシネマは、そんな風向きの中で日本に大量に輸入されたともいえる。そして、アメリカの映画文明が大きく舵を切り変えるのもこの頃からだった。暴力だセックスだ麻薬だベトナム戦争批判だとそんなに興行的に当たりもしない下品なゲテモノを売ってきたのとは違って、ギスギスして退廃した世の中にこそ、もっと大衆に受けやすく、世界の大衆がもっと楽しめる、世界中で当たる、もっと“平易で無難で幼稚なもの”を作り始めたのだのが、S・スピルバーグやJ・ルーカスだった。

 

アメリカ団塊世代の映画学科卒の商業バランス感覚に長けた優等生たちが、『ジョーズ』(75)や『アメリカングラフティ』(73)を筆頭に現れたのは、ニューシネマ・ウェーブの後のハリウッドの必然だった。アメリカの娯楽の要である映画産業が生まれ変わりするのはそこからだ。『スターウォーズ』(77)や『未知との遭遇』(77)が後に続いた。(実は、F・コッポラ監督という天才の『ゴッドファーザー』(72)もいわゆるニューシネマではない。むしろ、60年代までの古き良き伝統のメジャースタジオ映画の最後の最後の、突然変異だったと思うが)。

 

80年に入ると、アメリカはインフレになっていく。ドン・シーゲル監督の『殺人者たち』(64)などに出ていた演技の下手クソな三流俳優のレーガンが大統領の椅子だけは安値だったのか、選ばれてしまうと今度はまた、強いドル高金利政策を取り始める。その挙句、ドル高は続き、アメリカは貿易赤字を増やして、デトロイトじゃ日本産の輸入車をハンマーで叩き壊すデモンストレーションも起きて、新聞にその写真が載ったのも懐かしい話だ。またまた、日本は貯めたドルを売り円高に向かうハメになってしまう。そうなるとモノの輸出が減ってしまう分、国内需要を拡大して景気を上げようと公共投資も拡大し、日銀も金融緩和、銀行たちは簡単にカネを貸し出して、銀行とグルになった地上げも横行して、それがバブルを作っていった。海外旅行が異常ブームになり、舶来ブランド品の輸入産業も異常に増えて、日本の文化とは何かなんてことは考える暇もなく、社会は、人々は、自分たちの栄光を追い、虚栄、虚構を生きようとしたのだ。

 

ボクが自分の売名行為と共にみごとに加担した角川映画の製作バブル事情も、今、振り返ると、そんな経済の浮き沈みと大いに関係していたようだ。

映画の製作にもカネが回ってくるようになって、ボクが映画でもビデオでもCMでもドラマでも何でも作り出すのもその頃だが、やがて、フジテレビなどが自局での番組放送を見込んだ自社製“テレビのような映画”を作り出すのも、バブルに乗ったからだった。

 

ボクの『晴れ、ときどき殺人』(82)は、宇崎竜童がサスペンスな劇伴音楽(朝川朋之がすべて編曲だが)を担当してくれて、東映が配給して東宝の小屋(映画館)で興行された。変則といえばそうだが、角川事務所は強気だった。ヒッチコックの回顧特集などがあった日比谷の「みゆき座」で公開されるとはさすがにビックリだった。

 

大阪でも、難波の南街会館と聞いていて、ピンクあがりの映画偏執狂の若造にしては大したもんだと、ボクは自画自賛していた。匿名の評論家に「漫画アクション」かで「井筒にはアイドル映画をもっと撮らせよう」と書かれたりしても悪い気はしなかった。渡辺典子が下手な唄声で、晴ぁれーときどきキルミーと歌いまくって、彼女の生まれ故郷の大分の映画館まで一緒にキャンペーンさせられたおかげか、興行収入は8憶円近くか、まあまあのヒットで、角川の制作部も喜んでいた。

 

監督業と映画興行は切り離せないものなんだなと思わせる、電話がかかってきた。ボクの10年前の「性春の悶々」を当時の日活で配給できないかとかけ合ってくれたことがある樋口弘美(当時はプロデューサーだった)日活撮影所長からだった。

 

「久しぶりだね。ご活躍で。…何かこれから撮るんですか?」

「はい、まあ角川の次のモノで言われてますけど、まだ具体的には何にも」

「ああそう良かった、それなら直ぐってわけじゃないし、ちょっと六本木の本社の近くで明日、話せないかな。寿司でもどうですか?」

「何ですの?」と問うと、

「うちもポルノばっかりじゃダメなんで、一般映画やろうと思ってさ」と

樋口さんの、活動屋らしい大きな声が、ボクをまた試練に向かわそうとしていた。

プロフィール
井筒和幸の Get It Up !
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。

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