映画界の追い風に乗りかけていた。とっととこの映画を片付けよう。次が待ってるんだから。

Vol.024
井筒和幸の Get It Up !
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

日活撮影所で『晴れ、ときどき殺人』の撮影はいたって順調に進んでいた。併映予定の『湯殿山麓呪い村』の池田敏春組の方は、東北の地にロケに出ずっぱりで、天気待ちだ諸準備不足だ何だかんだで、悪戦苦闘してるとは聞いていたが、いいじゃないの、あっちはこっちより製作費が倍近くあるんだろうし、(池田監督が)好きに撮っていけばいいんだし、なるようにしかならないし、映画ってのはいつか必ず終わるんだしと、ボクはライバルの組には気にもかけなかった。

いや、端からライバルなんて思ってなくて、所詮、女子アイドルの二本立て興行だろ、どっちがA面でB面もないんだ、実際、撮り進むほどに角川映画という気負いもなくなって、気分も軽くなり、久しぶりに出る夜の東京の街ロケも遠足気分だった。

主人公の暮らす邸宅に見立てた某会社社長宅の前庭にキャメラを据えかけると、照明部が屋根の奥に見える庭木の枝のさらに向こうの空中に、棒の先につけた白い球体の何かを掲げ上げた。「あれは何のつもりなん?」と助監督に訊くと、「いい月夜なので、満月を作ってます」と。直径何十センチかの偽のお月さんに、ライト光を当てて調整してる間、やることもない監督のボクは、『ガキ帝国・悪たれ戦争』や『みゆき』で仕切って貰ってきた制作担当の先輩さんに、近くのカフェバーに誘われてビールを飲んで待ったのを思い出す。予算はなくてもそんな優雅な現場が毎日の時代だった。

携帯電話なんか要らなかった。満月の光り具合が決まれば、助監督がバーに現れて、「そろそろ、テストいっていいですか」と伺ってくれた。1984年といえば、経済的にはバブル景気などまだ先のことで、85年の先進5か国のプラザ合意というアメリカのドル建てに都合のいい合意で、日本がドル安円高の不況に見舞われて、都会のあちこちの町工場が倒産に追い込まれるまだその前で、日本は製造輸出産業こそ国の命という時代だった。

シャツも背広もまだまだ日本製が誇りだった時だ。メイドインジャパンが一番だった。映画も文化の製造業の端くれとするなら、撮影所育ちでもないボウフラのように頼まれもしないのに湧いてきたそんなボクにも、こんな優雅な製造現場にいられるのは幸運なことだった。昭和最後の欲望の資本主義まっしぐらの中で、ボクの映画作りも追い風に乗りかけていたのだった。

二本立て興行というのは、客たちにとってとても嬉しい形態だ。映画人生を語る時に必ずついて出る『仁義なき戦い』シリーズも公開時は二本立てで、一作目の併映は『女番長 スケバン』。杉本美樹と池玲子の惜しげもない裸体が見られるというお年玉作品で、実録アウトロー映画ファンであろうとなかろうといやでもボクら無職者たちは劇場に押し込まれたのだ。

『北陸代理戦争』の併映は川谷拓三主演の『ピラニア軍団 ダボシャツの天』がおまけだったか。小林旭と梅宮辰夫の『日本暴力列島・京阪神殺しの軍団』の時は、森崎東監督の『喜劇 特出しヒモ天国』という傑作が付録でついていた。人生も2倍得した気分だった。

二本と休憩をはさんで一日4時間ぐらいを、ボクらはひたすら闇の向こうに揺れて映える幻想世界に明け渡して、自分の夢を託したのだった。座席の間の通路にじか座りしようとも、それはかけがえのない至福の時だった。

ご飯をろくに食べなくても、映画を食っていれば生きられたのだった。それが、60年代後半から70年代に、町の映画館を第二の学校か塾と思いつめながら通い続けた者たちの、まさに青春の門だった。

調布日活スタジオでの撮影が3週間か経った頃の昼下がり、都内の角川事務所から社長秘書が伝令を届けに現れた。休憩時に食堂で話を聞いてみて、ビックリした。「うちの社長が、午前中に本社で、『晴れときどき』の撮影済み音付きラッシュを20分ほど試写で見て、来年の10周年記念に薬師丸(ひろ子)の主演作をやって頂きたいという伝言で、参りました」という報告だった。
「へーそうなんだ、それじゃ、オーナーはボクのラッシュを納得してくれたんだ?」と聞き返すと、
「はい、この調子で最後までガンバって仕上げて下さいと」
「未編集のラッシュなんか、よく分かったよね?」
「いや、編集の富田さんが既に仮繋ぎした冒頭部分20分です」
と。

彼(富田功)は前年の『みゆき』の時、編集マンとしてデビューし、ボクが抗うつ剤を飲んで撮った七転八倒のフィルムを切って繋いでくれた腕の立つ日活所属の27歳の若手だった。これでまた彼に助けられたなと思った。でも、彼と次に一緒に仕事をすることになるのは、それから10年も後の『岸和田少年愚連隊』だ。もうその時、彼の腕前はすっかりベテランの域に達していたのだが。

何にしろ、とっとと『晴れときどき』は片づけるしかないなと、気合いを入れ直した。ロケ現場で、作り物の満月が夜の風に煽られてるので、皆で、お月さんがそんな揺れ方はしないぞと笑い合った。

プロフィール
井筒和幸の Get It Up !
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。

日本中のクリエイターを応援するメディアクリエイターズステーションをフォロー!

井筒和幸の Get It Up !をもっと見る

TOP