『自分の思うまま映画を撮ったら、大変な結末が待っていた。 もうしばらく、映画は撮りたくなかった』

Vol.014
井筒和幸の Get It Up !
Kazuyuki Izutu
井筒 和幸

1981年のお盆明けの朝、ボクは警視庁四谷署の留置場(通称はブタ箱か)で不味いコッペパンを一口齧っては、配られた白湯で胃に流し込んでいた。東京にまだ定住所はなかったし、こんな所から早いとこ解放されて、奈良の実家に帰りたかった。しかし、仲間たちの供述がなかなか揃わず、もう10日間も拘留されたままだった。共犯である仲間の制作助手の一人と無名の主演俳優は原宿署に囚われていたのだった。

 

エンドタイトルロールに、上田正樹のオリジナルバラッドが流れる、愉快で切ないB級映画をどうにか仕上げてホッとしていたら、東映関西支社から上京していた宣伝課長らが、「まあ、後は9月の封切りを待つだけだし、宣伝の方も色々と手伝ってもらわないとアカンし、今夜は、そこの天ぷら屋ででも軽く“打上げ”しましょ」とボクらスタッフキャスト何人かを誘ってくれたのが、その「大暴れ事件」のことの弾みになってしまったのだ。

 

銀座の天ぷら屋は青二才のやんちゃな呑んだくれの活動屋たちに性が合うわけがなく、ボクらは飲んで食べて“打ち上げる”ほどに、〈物語がクライマックスに向かうきっかけとなる、主人公のチンピラが暴走族のアジトの壁に飾られた日の丸国旗を引き剥がす20秒間ほどのショット〉を、東映側からカット要請されたことへの恨みが募って、その宣伝課長とも言い合いになり、その怒りをどうぶつけたらいいのか分からないまま酔っぱらっていた。

 

「いくら娯楽映画だろうと、ああいう不謹慎なショットは世間を刺激するし、右翼さんの街宣カーが本社前に並ばれたらコトだし、カットしてもらわないとね」と最終ラッシュを見た本部長から命じられて、それに追従したことがどうしても癪だった。こっちのプロデューサーも「ここは自粛しとこう」というし、自主規制って何なんだよ!と誰にでも食ってかかっていたと思う。

 

銀座から流れて、新宿五丁目の安酒場でまた仲間らと酒を呷ってクダを巻き直したのだと思う。思う、ばっかりだが、ほとんど記憶にない。夜明けの御苑の脇道の一方通行標識などを片っ端から、仲間五人がかりで地面まで何本も折り曲げていった。「なにが進入禁止じゃ!」と叫んでいたかもだ。「走ってくるな!止まらんかい!」とタクシーたちを渋滞させたのだと思う。たかが映画のために、ボクら現行犯は警官から手錠をかけられた。手錠が手首に冷たかった瞬間からは覚えている。さすがに、「仁義なき戦い」の菅原文太の広能親分みたいに、目を空に向けてぶるっと体を揺すってから「税金の無駄遣いじゃのお」とはキメられなかった。手首の冷たさに初めて、現実に気づいたのだった。

 

封切り前だというのに、ボクらは“集団暴行及び器物破損”“都条令違反”などの罪状で、夕方のテレビニュース全国ネットやスポーツ紙に「ガキ帝国・悪たれ戦争の監督、自分から悪たれ」などと嘲笑われたらしい。四谷署の中年刑事が、どンなふうに乱暴をはたらいたと報じられても、どうしてそこまで呑んだくれたのかとは書いてくれないのが世間なんだぞと教えてくれた。

 

その刑事は新宿のネオン街のヤクザ者たちを取り締まってるからと教えてくれて、またいつか、聞きたいことがあれば取材していいよと妙に優しかった。でも、留置場から通わされた庁舎では、検事から「君たち芸能界の人間というのはだいたい世間をなめて見てるから、年明けまでの拘留もあるかもだから覚悟しなさい。私はね、君らの気ままでふざけた世界が大嫌いなんだ」と一喝されて、行く末を不安にさせた。

 

なるほど、鬼検事とはこういう物腰の人間で、こんな顔付きの人物をいうんだなと、この先、映画に検事を登場させるならこんな奴だなと、ボクは余裕で学習したのも覚えている。隣りの雑居房から壁越しに、「カントクだろ。俺さ同い年だよ、アンタの映画見てんだ、俺はこのまま小菅(東京拘置所)に持ってかれっけど、アンタのそんな立ちションベンみたいなのは後3日でパイ(釈放)だし、来年、俺が出てきたらどっかで会おうよ」とヤクザ稼業の男から声をかけられたりした。

 

ちょっとした珍事件を現場指導した主犯のボクと共犯者4人は、タバコは1日2本、風呂は4日に一度、消灯9時の規則の下、まるで家畜のような12日間の後、略式罰金刑を言い渡され、やっとこの世に釈放された。東映のプロデューサーが心配していたので、その足で謝りに行った。銀座の景色が10年経ったようで、自分だけ取り残されている感じだった。しかし、“自由”というはいいものだ。あの検事こそ、ボクらの「自由」を恨めしく思っていたか知らないが、何にしろ自由が嬉しかった。あの忌まわしき天ぷら屋だけは行きたくなかったが、食べたかったステーキを、実家から迎えに来てくれた親父と助監督たちで食べた。

 

ステーキも自由の味がした。封切りが迫っていたが、ボクは実家で過ごした。母が「お酒、あんまり飲まんようにな」と優しかった。封切り初日は世間体の手前、併映作の三浦友和と一緒に舞台挨拶には立てなかった。でも、一緒に立つ方がボクには元から不自然で想像つかなかった。世間なんて元からないボクは、渋谷東映に入場していくお客の光景だけをどこかで空想していた。ひと夏が去ってしまうと、秋がボクの空虚な心を余計に侘しくさせた。

 

(続く)

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