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『果てない映画への夢が募り始めた頃、ついに大手の東映から、製作依頼の電話がかかってきた』

Vol.011
井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏

『ガキ帝国』はアート・シアター・ギルド(ATG)の配給で、先ずは阪神地区の劇場で興行がスタートした。大阪のヤンチャ話だから、大阪で先行公開したようだった。ボクは全国で一斉公開して欲しかったが、まだ28才の青二才監督の言い分など通るわけがなかった。大阪でヒットするモノは全国中で当たるという統計だか習わしだかジンクスみたいなものが、興行界にあった時代だ。だから、実験的に先に封切ってみようという業界の魂胆だった。ボクは大阪の人間に見せて、手厳しい批判を食らうくらいなら、先に花のお江戸の田舎もんの集まる大都会で先にぶつけてみたかった。「何が標準語映画だ!この河内弁でも喰らいやがれ!」の気負った気分が半分と、あと半分は映画の出来上がりに自信がなかったから「ヤケクソの一発トライ」の気分が混ざっていた。

これで井筒が持つ社会への眼差しと、その不良性感度と映画テクニックが問われるのかと思うと、武者震いしながら、怖気づいていたのだ。だから、81年の3月の封切り日まで毎日、ミナミ(難波)の小さな寿司屋に座ってはなけなしの金で飲み続けた。時には、試写を見てきた不良少年役の若いオーディション上がりの成りたて役者を呼びつけては、「おい、昨日の、梅田の試写会はどうだった?ウケてたか?皆、笑って見てたかな?」と問いただす始末だった。

その彼が「紳助さんが、ウメ地下街の便所で敵の北新同盟の奴らをシバイてから、自分のオシッコを相手にひっかけて勝ち名乗りを上げるシーン、なかなかオシッコ出ないで焦ってたから、それでウケてましたよ」とボクを喜ばせるつもりか悲しませるつもりでか、何にしろ言ってくれたので、「もっと寿司食えよ」とコントのような応対をして、終電の電車賃がなくなったこともあった。

勿論、御堂筋の脇の植え込みに始発まで寝転んでたわけではない。さらに出演者仲間まで呼んで、彼に朝まで酒を奢らせて気を紛らわせた。でも、映画初体験のにわか役者たちも仕上がったばかりのその映画について、監督の本心をもっと聞きたかったようで、朝まで付き合ってくれたんだと今にして思う。彼ら新人たちも客観的に自分の出た作品が本当にオモロいのかつまらないのか判らなくなるくらい、映画撮影という「祭り」にのめり込んでいたからだった。映画という「虚構の夢」や「幻想」作りに加わるということは、なかなか醒めない夢気分の後遺症を引きずるものだということも、彼らこそ初体験しているようだった。

宣伝活動もロクにしないまま、創作の反動で呑んだくれているうち、我らの新作は、梅田では「007シリーズ」や『荒鷲の要塞』などの洋画大作が上映されてきた「ニューOS劇場」、難波は「南街文化」という数多のアメリカンニューシネマがかかってきたミナミど真ん中の、バジェット一千万円の『クソガキ映画』には格が上等過ぎる劇場で封切られた。京都も神戸も合わせて洋画系の4館でスタートした興行は地元漫才コンビの人気と物珍しい不良の喧嘩モノというふれこみで、ちょっとヒットしてくれた。ボクは、『荒鷲の要塞』のC・イーストウッドやリチャード・バートンを目に焼き付けたその思い出の小屋(ニューOS館)で30分間ほど客に紛れて観たが、カットの粗さとギャグの空回りに耐えられず、自分の全裸体を晒してるようで、汗をかきながら退出した。客たちが笑ってくれた何箇所かをその時は覚えていたが、今はもう思い出せない。

映画という祭りは客の反応がゴールだ。寅さんの笑って泣いてか。大島渚の深刻な感情も大切だ。ドン・シーゲル監督の激情にかられて胸に迫る『突破口』。デヴィッド・リーンの胸に響く『戦場にかける橋』、涙がうるむ『ビッグ・ウェンズデイ』か。気分がいい『ゲッタウエイ』のサム・ペキンパー節。大きなため息は今村昌平の『復讐するは我にあり』か・・・。見世物商売とはよく言ったものだが、ボクは客に媚びて迎合した映画だけは絶対に作るまいと実感していた。どんなに嫌悪感で迎えられようと、どれだけ拍手されようと、自分の特別な思いだけを客に届けたかった。将来もそうしていこうと改めて得心した。公開が3週間以上続くと酒もタバコも呑み過ぎたが、関西の興行成績がまあまあで客を賑わせたのか、初夏からは東京でも始まろうとしていた。興行者が原宿に特別テント小屋をおっ建てて3カ月間、そこだけで公開すると勇ましいことを言っていた。青二才は小さくていいから普通の小屋でやって欲しかったがもう口に出さなかった。どうとでもなれ。東京人よ、この噂の映画を見やがれ!の気分だった。中身の恥かしさも何も吹っ切れて消えていた。

そんな春先、銀座の東映本社から、電話があった。東京の高橋プロ(先輩の高橋伴明さんのハウスプロ)に寝泊まりさせてもらっている時だ。「うちの重役さんがあの『ガキ帝国』見たらしいんだけど、明日でもすぐに本社に来れないかって。うちの本線の9月番組を頼みたいそうだよ。来れるかな?」と懇意にして貰っていた子会社の東映セントラルフィルムのプロデューサーの声だった。電話を聞いているうちに、もう何かを撮っている気分になっていた。東映の鈴木本部長だと?知るかそんな人。部長が番組(月ごとに封切る全国東映系用のプログラムのこと)を頼みたい? おう上等じゃないか。でも何を撮れって言うつもりだ。まさか菅原文太の「トラック野郎」じゃないだろ?何だろ?千葉真一のカンフーか?」と色々、思い浮かべた。「明日都合つけられるならよろしく」「はい、じゃ3時に」と受話器をおいた。監督オーディションってっわけか。なお更、上等じゃないの。受けて立ってやる。ボクはその瞬間、もう前作の後遺症など忘れて、すっかり心が解放されていくのが分かった。 銀座の東映本社の応接室が何階にあるかも知らなかったけど。

(続く)

井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU

■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。


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