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『映画は芸術であって、コンテンツやビジネスなどではない。我らこそが資本、作品こそ資本だ』

Vol.008
井筒和幸の Get It Up ! 井筒 和幸 氏

我ら、ちょっとばかり名の売れ出した、つまり、新聞や週刊誌に名前を書かれ始めた新進気鋭の若手たち(自主制作の「暗くなるまで待てない」の大森一樹や「ライブイン茅ヶ崎」の森田芳光や、おピンク映画のボクたち)は、一斉封切りチェーン館を100館以上はもっているメジャー映画会社に、自分らしい第一回監督作品を持ち込んで、いち早く、それを作品にして実らせたかった。会社の企画部や制作部や、はたまた何部の誰でもいいから道端でも掴まえては、企画に愛をこめて、その話を聞いて貰いたかった。「ガキ帝国」の企画も、京都太秦の東映撮影所のプロデューサーに粗稿を読ませたものの、こともなげに断られて、早や3年も経っていたし、その積年の恨みもあって何としてでも作り上げたかったのだ。

部屋の片隅にある殴り書きした粗稿を、相棒だった助監督の西岡琢也に預けたまま、時間だけが無駄に経っていた。そんなある日の夜、運命的な人との出逢いがボクらを突き動かせることになる。それは、大島渚や今村昌平や若松孝二といった名だたるクセ者作家たちの作品を発表し続けてきていたATG(アートシアターギルド)という東宝系列の芸術部門の独立配給会社が、新しい資本体制で生まれ変わって再稼働し出していたところで、そこの新社長さん(佐々木史朗氏)が、小生のピンク映画3本立て特集をしてくれた池袋文芸地下劇場に来訪していて、そこの支配人の紹介で引き会わせてもらったことから始まる。佐々木社長は早速、「新ATGとして、これから、若い、つまりアンタら20代の作家にオモシロい映画を作らせていきたいんだ」と切り出された。ボクは、脚本などまともに書けた験しもなかったけれど、佐々木社長には即答していた。「撮りたいですね。実は、大阪のミナミやキタの繁華街を股にかけてケンカや悪いことばかりする不良少年たち、ストリートギャングたちのいいシナリオがあるのですぐ送りますよ。絶対に誰も見たことのない映画にしたいんです」と口から出まかせに喋っていた。「出まかせ」は無責任な言い方なんだろうが、その時のボクは、胸のうちを率直に言ったまでだった。

そして、1979年、相棒の西岡に実のあるシナリオ作業を改めて頼むことにしたのだ。今はギャラは相棒にも自分にも誰にも一銭も払われないけれど、やがて、このシナリオはお金を生むだろうし、皆に報酬として配られるに違いないのだ。その一念で、ボクは何度も、東京に上京する度、ATGの佐々木社長に話に行ったものだ。そして、何が松竹作品だコン畜生めと反抗心も先に逆立って行く気にはならなかった。年が明けて80年の初春、佐々木社長が「吉本の紳助竜介っていうあの人気上昇中の漫才コンビは幾つなんだろ?」と言ってきたので、ボクが「23才ぐらいですかな」と答えると、「そうか、彼らをキャスティングできるような話になれば、この不良少年映画はうちで作れるかも知れないよ。興行的にも売れるかもだし」と言われた。

「なるほど、了解です。このアイデアを大阪に持ち帰って、吉本興業に話してみますわ」と、ボクはもう一端のプロデューサーになったつもりだった。帰路の国鉄夜行バスの一番後ろの席で、ボクは、この芸術仕事に命を懸けるのは今しかない。もうチャンスはこれしかない。やってやる」とワンカップ酒を一口づつ噛むようにして呑みこんでいた。朝までの長い運行の間、ボクはまんじりともせず、だった。映画を作るんだぞ、東名夜行バスの中こそ思索、画策の場所だった。寝てしまおうなんて考えもしなかった。

翌週、吉本興業の本社に帰っていた木村プロデューサーに、紳助竜介の二人組の映画出演をお願いしに行った。「井筒さん、去年のテレビ仕事中から言っていたあのミナミ(南場心斎橋界隈)の不良と、キタ(梅田界隈)の“梅田会"の縄張り争いの話でしょ。会わせますから、『映画やろう!』と熱意を語って下さい。私も横から『映画で人気出たらギャラ上げたるし』って口説きますよ。本人たちを面接して下さい」と二つ返事で快く、乗ってくれた。

梅田会というのは、60年代後半に実際に徒党を組んでたむろしていたカツアゲとケンカを主に繰り広げていた有名な不良少年グループで、後の取材で分かったことだが、67~69年当時は300人ほどいたらしく、表向きは只の不良たちでも、その背後にいた組織暴力団のみかじめ代の集金や博奕場の手伝いや企業恐喝行為までやらされていたという話だった。人気上昇中の二人と、ミナミ道頓堀のウナギ屋で会わせてもらって、企画を伝えると、紳助くんが「ボクも京都の東十条あたりで暴走族やってたし、不良は十代の“麻疹(はしか)"みたいなもんやし、芝居のシも分からへんけど、色々教えて下さい」と快諾してくれた。吉本新喜劇の幕引き係出身でツッコミ役になった竜介くんの方は眼を輝かせて、何でもやったるぞという顔だった。木村さんがきっと「おい、映画に出て、レギュラーも増えたらベースギャラも上げたるから」と二人に口添えしてくれたんだと思った。

東京のATGと1000万円の製作資本を折半で出し合ってくれそうな地元大阪の出版社にも早速、この熱い話を聞かせにいった。了解してくれると思ってたら、そこの代表が「今の大阪のシティボーイ風な若者の夢を描くならええけど、ひと昔前の不良ヤンキーモノはどうもなぁ・・・」と怪訝な顔をされた。何とか説得しないと、500万の出資先は27才の青二才の自分には他に探しようがない・・・困った、そんな軟弱なシティーボーイじゃ困るんだわ。孤独と戦うド不良話に乗ってくれよ・・・。80年の4月、我らには春はまだ訪れてくれなかった。
(続く)

井筒和幸(映画監督)KAZUYUKI IZUTSU

■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県
 
奈良県立奈良高等学校在学中から映画制作を開始。
8mm映画「オレたちに明日はない」 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を制作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年) 「晴れ、ときどき殺人」(84年)「二代目はクリスチャン」(85年) 「犬死にせしもの」(86年) 「宇宙の法則」(90年)『突然炎のごとく』(94年)「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン最優秀作品賞を受賞) 「のど自慢」(98年) 「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年) 「ゲロッパ!」(03年) 「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン最優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年) 「TO THE FUTURE」(08年) 「ヒーローショー」(10年)「黄金を抱いて翔べ」(12年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、独自の批評精神と鋭い眼差しにより様々な分野での「御意見番」として、テレビ、ラジオのコメンテーターなどでも活躍している。


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