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べタな娯楽モノしか作らない邦画界の横っ面を張り飛ばしてやりたいとボクの血も騒いでいた。「海賊でもやって一旗揚げて、…どうせおまえもわしも一遍も二遍も死に損ねた身体じゃ」という原作の一節はボクの気分を代弁していた。

Vol.40
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

京都の大映撮影所は今、その跡影もない。『新・悪名』で台詞を喋りながらカレーライスを10カットの間に完食してしまう勝新太郎や、相棒の田宮二郎の名コンビを生み、『眠り狂四郎』の市川雷蔵を生み、女優・若尾文子を生み、撮影中の溝口健二巨匠が助監督に尿瓶を持ってこさせた東洋一のスタジオも、遠い昔の幻だ。

1985年の年末から翌年2月のクランクアップまで、そこに居続けたボクの『犬死にせしもの』という、敗戦後の瀬戸内海を舞台にした海の荒くれどものアクション映画が、おそらく、大映オリジナルものとしては最後の作品だったように思う。もう35年も経つが。そして、ボクもそれを最期に、京都のスタジオで映画を撮る機会は回ってこなかった。東映スタジオにも隣の松竹スタジオにも呼ばれることもなかった。

『犬死にせしもの』の撮影が予定の何倍も延びて、製作費も2倍以上にふくらむような毎日が難題山積みのロケだったことが、東京の業界中に伝わって、あんな(井筒みたいな)時間とカネとフィルムを使うだけ使って、思いつきでしか撮らないような傍若無人な若手より、プロデューサーの仕切りをちゃんと守る職人監督で作らないと会社の身が持たんぞと、当時、回覧板が回ったわけではないが、狭い業界のあちこちで噂されたのは確かだった。しかし、邦画メジャーのプログラム企画も迷走していたのも確かだ。何を作ったら当たるのかとそればかり。東映はまんがまつりとビー・バップ・ハイスクール、極道の妻たち、深作さんの「火宅の人」ぐらいか。松竹の「キネマの天地」もタイトルからして古臭かった。フジテレビが製作に乗り出した「子猫物語」も女性や子供や家族が相手だし、自由な映画とは程遠かった。

原作である長ったらしい題名の『犬死せしものの墓碑銘』は、長年の相棒であるシナリオの西岡琢也が見つけてきたトクマノベルズのもので、徳間大映で企画がスタートしたのはさらに一年以上前からだった。西岡がボクに映画にしようと薦めてくれた理由は明解で、敗戦でビルマ戦線から復員した兵隊上がりたちが海賊をやらかす、カネはかかるだろうが、見たことがない海洋アクションで、ボクら監督脚本コンビにはもってこいだった。べタな娯楽しか作らない邦画界の横っ面を張り飛ばしてやりたいとボクの血も騒いでいた。――「海賊は一旗揚げるための手段よ。というても一か八かだが、どうせおまえもわしも一遍も二遍も死に損ねた身体じゃ。どう転んでもたいしたことはない。思い切ってやってみるか」という一節は、まるでボクの心情で、海の上を走る海賊船のスリリングなニューシネマタッチの画面もすぐ頭に浮かんだ。大映側もそんな破天荒な青春アクションなら、今まで映画に出ていない人を起用してみたらとやる気になってくれた。こっちから提案したのはサザンオールスターズの桑田佳祐だ。「いいですね。口説けますかな?」と大映企画部。ボクは「なら、すぐに本人に原作を読まそう」と。で、早速、アミューズの代表取締役に会うと、代表が「これは本人判断だし、段取るから後は監督の方で口説いてほしいな」と返された。「え?代表から言えないんですか?」と突っこみたかったが、もう賽は投げられた、だ。待ってろ、どこへなりと出て行くぞと思い直した。

ひと月後か、アミューズの交渉係と一緒に仙台まで出向き、ライブを終えた本人とやっと会えた。が、桑田は「まだ三分の一しか読んでないんで」と。「でも、どうです?」と今度は目の前の本人に聞き質すしかなかった。「うーん、かなり昔の話でしょ、で、元兵隊でしょ、その感じがまだ想像つかなくて……」と濁された。

「じゃ、とにかく最後まで読んでもらって、ぜひ乗ってほしいです、よろしく」とボクも口を濁して、その場を去った。

帰りの新幹線の中で「あれじゃ、無理やな、やらんやろ」とボクは交渉係に言った。それ以来、桑田には会わなかったし、本人からも返事はなかった。『犬死せしもの』の企画は、翌年85年までシナリオだけ進めてもらいながら放ったらかしにしていたというわけだ。

86年11月上旬から、瀬戸内の海辺の町でクランクインした。敗戦でごった返す闇市通りのオープンセットを組んで、地元のエキストラ何百人かにモンペや国民服を着て歩かせた。いつの間にか京都から撮影用大クレーンも運ばれていて、「この位置でええんか!」「どけろ!まだ要らんから!」と怒声が飛びかった。助監督がテストでニコニコ顔で歩くエキストラたちに「皆さん、ニッポンは戦争に負けたんです!そんな感じで歩いて!負けたんですよ!」と大声で説明していた。ボクも時代のイメージがつかめず、しっくりこなくて焦っていた…。

(続く)

●『無頼』
東北地方では、8月20日〜岩手・フォーラム盛岡の公開の他、青森・八戸、山形、福島は、監督舞台挨拶、トークショーの予定もあり、近日公開予定です。

『無頼』
https://www.buraimovie.jp/

『無頼』予告編動画
https://youtu.be/5Vbit_IwUE0

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。 在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。
1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。
1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。
上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」
https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE
https://www.izutsupro.co.jp

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