「新しい角川の記念作品に挑む時がきた。思わず、武者震いがした」

Vol.034
映画監督
Kazuyuki Izutsu
井筒 和幸

振り返れば、‘85年は映画作りに没頭しまくった年だった。

私生活は単調で自宅に戻ったら寝るだけの日々だった。

春に日活のゲテモノ『金魂巻』が封切られて、6月からは角川映画の『二代目はクリスチャン』の制作準備が本格化し、

ボクらは“義理欠く恥かく人情欠く―”と誰がいったか知らないが昔から噂される三角マークの東映の、京都撮影所に行かされるのだった。

 

ボクらというのは二人のことで、一人で“魔界”に乗りこむのが心細かったから、『COMBAってんねん』の助監督で来てくれて以来の後輩、

阪本順治(後に、『どついたるねん』で監督デビュー)に声をかけ、サード助監督として入ってもらったというわけだ。

 

実は、原作者のつかこうへいが上げていた初稿シナリオは、こっちから改訂を頼んでおいたにもかかわらず、中身は一向に改良されず、

注文しておいたト書きや新しい台詞もほとんど加えられてなかったし、このままでは到底、撮影には入れないし、ボクの頭を悩まし続けていたからだ。

 

制作の下請けをする京都撮影所の佐藤正夫チーフプロデューサーからも

「このホンじゃ、人物の動きも分からんし、台詞も含めて話が盛り上がらんことは確かやね。

まあ、つかさんのホンはこんなもんやろし・・・、前の『蒲田行進曲』の時も、サクさん(深作欣二監督)が現場で一人で書き直しばっかりやってたんで・・・」

と、困っているのか困ってないのかよく分からないが、とにかく、頭をかかえていたのだ。

 

そこで、ボクは佐藤チーフに

「すぐに京都に行きますんで、10日間ぐらいでシナリオの直し、させて下さい。このままじゃ前に進みませんわ。中身が破綻してます・・・」

と投げかけてみた。

 

「阪本という助監督を連れて行きます。彼はシナリオの才能もあります。二人で撮影改訂稿を作ります」と言うと、

佐藤チーフは「それならそうしてもらおうか。それで頼んます」と応じてくれた。

あらかじめ、阪本にはつかの初稿は読ませておいたので、彼も「あれじゃしんどいです、行きますよ」と即答してくれた。

 

ボクらには初の冒険だった。

東映京都に乗り込んで現場をひっかき回すことより先に、名うての舞台作家の書いたものを砕いて一から組み直すことに武者震いした。

佐藤チーフには「分り易くト書きを足しますわ」とは言ったものの、これは、つか流の(実は迷走した)舞台台本を、換骨奪胎(実は解剖)して、血まで透析して、実は改造してしまいたいというのがこっちの本音だったが。

角川のプロデューサーからは「これは角川の十周年映画なんで、気合入れてやって下さいよ」と言われていたし、

この京都遠征作戦はタダならないことになりそうだと覚悟していたので、東映京都に入ったら言いたいことをいってやろうとも思った。

 

太秦の撮影所から少しタクシーで走った嵐山の静かで小さな旅館に、ボクと阪本は投宿して、明けても暮れても、シナリオの改訂ならぬ「改造」作業に没頭した。

 

夜に出歩くことも忘れてしまうほど、籠の鳥になって、台詞とト書き作りに励んだ。

お互いに元からある台詞にケチをつけては新しい台詞を思いつき、書き替え、元のシーン自体を切って捨てたり、新しい場面を作ったり。

 

阪本が発案するギャグ台詞たちは気が利いていて、ボクが両手を打って笑うと、彼はそれを原稿箋に頷きながら書いた。

主人公のシスター今日子(志穂美悦子)以外の、やくざ一家の子分たちの一々の台詞を関西弁に正し、天下のつかこうへいの台詞に勝つ台詞作りに必死だった。

夜になると、制作部が現れて、ボクらに餌、いや、美味しい牛丼などを運んできてくれた。

 

夜と昼が入れ替わるほど徹夜も続けて、一週間かしたら、脚本が上がっていた。

ボクは読み返す気力もなかったが、阪本は、これでかなり面白くなったと思いますよ、と言い添えてくれた。

初めて、ボクは映画脚本を作る愉しみを覚えた時だった。撮影所からプロデューサーがやって来て、上がった改造稿を持って帰った。

ふらりと外に出て、嵐山の居酒屋に寄ってみたら、イナゴの佃煮が妙に美味かった。

 

あくる日、改造稿を佐藤チーフ以下、制作部が読んで、佐藤チーフから、お疲れさん、これで印刷に回すわと簡単に言われた。

ギャグ面白なってますよとボクがつけ加えると、「あとはイヅっちゃんの腕次第やね・・・」と返された。

「つかさん、ここまで手を入れたら、怒るんちゃいますか?」とボクも言い返すと、「大丈夫。私からうまく言うから」と。

 

そして、所長室や製作部の廊下の奥に居並ぶスタッフルームに案内された。

ルームドアの頭上に“山下組”(山下耕作監督)のプレートが出ている、そのさらに奥にある、“井筒組”と掲げられた書かれたばかりの我がルームに入ってみた。

制作担当さんが「お待ちしておりました。冷蔵庫にお酒はまだ入ってませんけど、これから、長い夏になりますがよろしく」と挨拶された。

また、武者震いして、アドレナリンが駆けめぐった。

 

『無頼』は、現在、大阪、高崎、岐阜の関市で公開中。今週から、厚木、来週から、渋谷アップリンクと、さらに全国で順次公開されます。

熱かった昭和時代にタイムスリップする“ヤクザ映画”です、『二代目はクリスチャン』とは真逆のリアリズムを味わってほしいものです、ぜひ、皆さん、劇場へ。

 

プロフィール
映画監督
井筒 和幸
■生年月日 1952年12月13日
■出身地  奈良県

奈良県立奈良高等学校在学中から映画製作を開始。
在学中に8mm映画「オレたちに明日はない」、 卒業後に16mm「戦争を知らんガキ」を製作。

1975年、高校時代の仲間と映画制作グループ「新映倶楽部」を設立。

1975年、150万円をかき集めて、35mmのピンク映画「行く行くマイトガイ・性春の悶々」(井筒和生 名義/後に、1977年「ゆけゆけマイトガイ 性春の悶々」に改題、ミリオン公開)にて監督デビュー。

上京後、数多くの作品を監督するなか、1981年「ガキ帝国」で日本映画監督協会新人奨励賞を受賞。以降「みゆき」(83年)、「晴れ、ときどき殺人」(84年)、「二代目はクリスチャン」(85年)、「犬死にせしもの」(86年)、「宇宙の法則」(90年)、『突然炎のごとく』(94年)、「岸和田少年愚連隊」(96年/ブルーリボン優秀作品賞を受賞)、「のど自慢」(98年)、「ビッグ・ショー!ハワイに唄えば」(99年)、「ゲロッパ!」(03年)などを監督。
「パッチギ!」(04年)では、05年度ブルーリボン優秀作品賞他、多数の映画賞を総なめ獲得し、その続編「パッチギ!LOVE&PEACE」(07年)も発表。
その後も「TO THE FUTURE」(08年)、「ヒーローショー」(10年)、「黄金を抱いて翔べ」(12年)、「無頼」(20年)など、様々な社会派エンターテインメント作品を作り続けている。
その他、鋭い批評精神と、その独特な筆致で様々な分野に寄稿するコラムニストでもあり、テレビ、ラジオのコメンテーターとしても活躍している

■YouTube「井筒和幸の監督チャンネル」https://www.youtube.com/channel/UCSOWthXebCX_JDC2vXXmOHw

■井筒和幸監督OFFICIAL WEB SITE https://www.izutsupro.co.jp

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